クロサワ死後、いくつもの便乗本が出版されたけど、各人「群盲象を撫でる」の感があるが、本書は『羅生門』以降、『まあだだよ』までのスクリプターを務めた人によるクロサワ像である。
黒澤明の創造の源を探ると言うより、伝記記述に近いために今後参考文献として重宝されるだろう。まあどこまでが真実かはなんとも言えないというのが本当のところだろう。武満徹と『乱』のダビングでぶつかり、部屋を出ていった武満を送るとき、「黒澤さんの取り巻きが悪いんです」といわれ、「あなたもですよ」とジロリとにらまれたエピソードなどはわかりやすい。
天才どうしのぶつかり合いといったら万人向けなのだろうが、作曲家との打ち合わせに、完璧にクラッシックの名曲をカット割を合わせたラッシュを持参して、「これより良い曲を書いてくれ」と頼むことをしてしまう感性が 独裁とリーダーシップの混同ではなかったのだろうか。
このときにロケ現場にいった武満が、天気待ちで機嫌の悪い黒澤に気をつかうスタッフのために即興で作ったのが「明日 ( アシタ ) ハ晴レカナ、曇リカナ」だったという。
昨日ノ悲シミ 今日ノ涙
明日ハ晴レカナ 曇リカナ
昨日ノ苦シミ 今日ノ悩ミ
明日ハ晴レカナ 曇リカナ
マルチカメラがたまたま上手く行った『七人の侍』のために彼の方向性がおかしくなっていったのではないだろうか。それは裏返せば 編集でいくらでもいじれることを意味するのだから、撮影の意味が混乱したと思われる。いわば芝居をフレームで切り取ることだから、役者の長回しに対するテンションと望遠レンズで捉える表情の意味合いが混乱していくことが、映画の統一性を奪って行ったと思える。 役者はロングに耐える演劇的なオーバーアクトをするが、望遠でドキュメンタルなカメラはそのクドイ演技をアップで、ぶれながら見せることになる。 現場では意味合い的につながっても、編集ではつながらないのだ。(それはリアリズムとは別のものだろう 。クロサワの持つネオリアリズモな雰囲気 はこのあたりに起因するのではないか?)
この手法が成功するのはアクション映画なのに、自らそれを封印したところに、どこか彼の限界を感じる。
それは、さておき、野上氏の映画入りのキッカケが伊丹万作との文通であり、息子十三の後見人的な人であったこともはじめて知った。
これはカツドウヤの記録というより、特殊な個人の例として読んだほうが理解できるだろう。
