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CANON EOS Kiss X4は買いか?

CANON EOS Kiss X4は、現在8万円を割る価格帯になっています。CANON EOS Kissシリーズは誰でも撮れる一眼レフの入門機であり、プロ用の上位機種となると、EOS 7Dがあります。Kiss X4と7Dのちがいは資料を読むといくつか出てきますが、動画機能については違いが無いだろうと思われる。要するに、ボディの堅牢さ、スチルカメラとしての高度なAF機能などに差額7万円の価値を見出すかどうかでしょう。Kiss X4の利点は記録メディアがSDカードという点(7DはCFカード)。値段とメーカーの選択肢が広がります。

海外のサイトを見ても、EOS Kiss X4(550DまたはRebel T2iという名前になっています)の評判はいいですね。Canon製のレンズがいまひとつだという意見もちらほらあります。差額をレンズに注ぎ込んだら良いのではと考えています。

このカメラの位置づけは、2年ほど前のCANON HV-20ビデオカメラが出た時と同じくらいの値段と機能のコストパフォーマンスで云えば衝撃ではないでしょうか。あるいは、SONY VX-2000とSONY PD-150の民生用と業務用の違いかな。どちらにせよ、動画に関しては値段を遥かに越えたオーバースペックということです。但し動画機能はオマケという、倒錯した考えなので、今後どうなるのか予想がつかない。もうひとつ言えるのは、今度CANONのビデオカメラが生き残るには、録音やモニタ機能を良くしていくしかないというこれまた倒錯。これまでのビデオの時代が終わりに近づきつつあることだけは確かなようです。

どちらにせよ、悩むより買えば…という、フルHD規格の動画撮影用デジタル一眼レフカメラの登場ではないでしょうか。
Kiss X4の動画

550D T2i Camera Test from Drew Painter on Vimeo.

7Dとの比較記事
(この項つづく)

 

ロバート・ロドリゲス Canon 7Dを使ってミュージックビデオ撮影

Philip Bloomさんのブログで、ロバート・ロドリゲス監督が、Canon 7Dを使って、ミュージック・ビデオを撮影している記事があったので、機材を確認してみました。コメント欄の後半に機材を提供した撮影監督の、Jimmy Lindsey さん(本人のサイト)の解説コメントがあります。彼はロドリゲスと『Machete』でも組んでいます。

眺めているだけで楽しいですねぇ。一体総額でどれくらいになるんでしょうか?
http://philipbloom.co.uk/2010/03/02/robert-rodriguez-shooting-music-video-on-2-canon-7ds/

カメラ Canon 7D
レンズ 70-200mm F2.8
レンズフード Camrey ラバーフード
マイク Rode Video Mic
ギア  ZACUTO ZDSLR-MM
ワイヤレスフォーカスコントローラー Preston FI+Z
モニタ panasonic 7inch(撮影モニタ用)panasonic 17inch(カメラ助手のフォーカス送り用)
HD→SD変換 AJA HA5 Canon 7DカメラのHDMI出力をSDに変換して2台のモニタに送るコンバーター
AJA HA5用電源 SONY MバッテリーとNebtekアダプター
FI+Zと撮影モニタ用電源 (たぶん)SONY BPバッテリーDタップケーブルの出力付きアダプター(こういうものだと思います)

右肩のところに積み上がっている機材は、上から

Mバッテリー
Nebtekアダプター
FI+Zのトランスミッター
(たぶん)SONY BPバッテリー
Dタップコードの出力付きアダプター

完成したMVはこちら
http://link.brightcove.com/services/player/bcpid271548326?bctid=82322677001

 

映画撮影技術の簡潔な歴史

イギリスの映画協会(BFI)のサイトに短い映画撮影技術の歴史というページがあってまとまっていたので訳してみました。これが基礎知識になると思うのですが、わかりますか?観客の視点でこれを読むとどう感じるのかなと思いました。ご意見・ご感想をお待ちしています。
※は、私が書いた訳注です。
http://www.bfi.org.uk/sightandsound/feature/49524

映画創世記のはじめの数年間、キャメラマンは存在しなかった。初期の映画製作者たちはストーリーを考え、セットを作り、役者を演出し、カットの構 図を決めてキャメラを廻すまで、なんでも自分たちで行なった。ジョルジュ・メリエスやジョージ・アルバート・スミス<※1>のような人たちは 才能、知識、創造性、技術があったので、これらのことを簡単に成し遂げることができた。彼らが撮影したシーンの照明は、メリエスや彼の追随者が作った、ガ ラスで覆われた屋内スタジオの中で柔らげられた太陽光か、または屋外の直射日光だった。

※1ジョージ・アルバート・スミス:イギリスの初期の映画製作者。1906年にキネマカラーと言うカラー現像方法を考案している。

映画が、ワンカット以上で作られるようになると、1903年から専門のキャメラマンが付くようになった。1906年の全世界的な映画の流行は、 ニッケルオデオンへの更なる映画の供給を要求した。そして昼間の太陽光のある時間に撮影するために、ガラスで覆われた大きな屋内スタジオでの安定した照明 が必要とされた。このことは特別に改造された街灯のアーク灯を柔らげられた人工光として太陽光に加えることを意味した。一つのアークライトを使い、暗い シーンで、ある範囲に一面から光を当てることで不吉な雰囲気を出すことができた。1912年頃の表現主義映画では下から照明されていた。

その一方で、屋外シーンでは「バック・ライティング」と呼ばれる新しい方法が1910年に現れた。これは、カメラの後ろから役者に顔を照らすとい うのではなく、太陽光をキャメラの方に向けて、役者の背中に光を当てることだった。明るいカルフォルニアの太陽のもとでは、バックライティングは、役者が 影の中に埋もれることを避けるために、キャメラの下に置いた白い反射布から役者の顔に反射させた光と、調和させなければならなかった。

この方法は1914年に屋内撮影でも使われるようになった。背後からの光は、劇場仕様のアーク灯のスポット・ライトによって、光のビームとして狭い範囲に集中して役者に当てられる。役者の顔に正面から当てる光は、太陽光から(広い範囲を照らす)フラッド・ライトになった。

この頃まで、役者とセットは一緒にまとめて照明されていた。しかし、第一次世界大戦中、新しい映画照明についての基本コンセプトがアメリカ映画で 確立された。まずセットの照明を行い、それから別のライトで役者の照明を行うという方法だ。ヨーロッパのキャメラマンが昔ながらのやり方を続けていたが、 アメリカの撮影技術は20世紀を通じて先導し続けることになる。トップレベルのスチル写真撮影者たちが新しいキャメラマンとして、戦争の間に映画産業に やってきて注意深く照明の角度を決める技術を見せた。彼らのひとりにチャールズ・ロシャーがいた。彼はメアリー・ピックフォードと契約して彼女が主演、製 作する映画の撮影を行なった。
(チャールズ・ロシャー、メアリー・ピックフォード、エルンスト・ルビッチ)

同じ時期に「軟調(ソフト・フォーカス)」効果は、次第にスチル写真技術から、映画撮影技術に侵食してきた。この「美学的」な霞んだシーンの極端 な使用がD・W・グリフィスの『散り行く花』(1919年)で、ヘンドリック・サルトフの影響のもとに行われた。彼はグリフィスのキャメラマンだったビ リー・ビッツァーに取って代わるようになった。軟調は1920年代を通じてアメリカ映画の基調となり、次第にヨーロッパに広がっていった。
『散り行く花』

映画のシーンはますます役者のクローズアップのカットを重ねるようになってくると、キャメラマンは、人物の照明のやり方を規格化するようになっ た。キー(主)ライトは通常、スポットライトで顔の形をくっきりさせる。フィル(抑え)ライトは通常フラッドライトで、顔の凹凸の影を消す。そして、バッ クライトは先ほど書いたとおりである。これは三点(スリーポイント)照明と呼ばれるようになるが※<2>、実際は1920年代のアメリカ映画 では二台のバックライトが、アタマの両側から使用されていたので、四点照明だった。1925年頃のパラマウント映画、例えば『子の心親知らず』(1925 年)などで見ることができる。そして他社のキャメラマンも同じような照明をしていた。「グラマー・ライティング」※<3>の秘密は、キーライ トとフィルライトがキャメラのすぐ両脇に置かれ、ほとんど同じ強さでバックライトが別の方向から近づくことによって生み出された。そしてもちろんものすご いソフトフォーカスを使っている。

※2 スリーポイント照明:http://www.mediacollege.com/lighting/three-point/simulator.html
※3グラマー・ライティング:ジョゼフ・フォン・スタンバーグ作品の、マレーネ・ディートリヒの顔への照明がわかりやすいと思われる。

ほとんどの監督はキャメラマンに構図を決めさせた。そしてキャメラマンは、大部分のアイディアを過去の古典的絵画から持ってきていた。撮影技術に 現代美術の影響を取り入れることはほとんどなく、それは何をどのように撮影するかを自分自身で決定した、一握りの有能な監督たちの手によってなされた。そ の最初のひとりはフリッツ・ラング。彼のアイディアは幾何学的な抽象芸術から来ていた。その次はセルゲイ・エイゼンシュタイン。彼の構図は完全にアヴァン ギャルド芸術に対する彼の個人の統合からもたらされたもので、キャメラマンが作り出したものではない。

1920年代には、様々なカメラの動かし方(移動、パン、ティルト)への関心が起こった。それは『最後の人』(1924年)を作ったF・W・ムル ナウのようなヨーロッパの映画監督が主導した。これはカメラを動かすことが、大変な作業になり、献身的なキャメラ・オペレーターが必要になってきたことを 意味している。キャメラ・オペレーターは原則的にはキャメラマンの管理下で作業をする。キャメラマンは今やすべての注意を照明に向けることになる、そして 現場ではキャメラ・オペレータと区別するために「ライディング・キャメラマン」※<4>と呼ばれた。そしてキャメラ・オペレーターは助手また は、キャメラの動きに要求に応えるためピント送りをする「フォーカス担当」を従える。

※4ライディング・キャメラマン:イギリスでは撮影監督はそのように呼ばれる。

1930年代、すべての長編映画の撮影技術は、洗練され定型化されて目に見える逸脱は殆どなかった。ヨーロッパ人たちは、アメリカ人よりは少ない 照明を使って、彼らの技術革新を取り入れていた。にもかかわらず、いくつかの実験が進められていた。それは主に深い被写界深度を得るため試みられていて、 オーソン・ウェルズの『市民ケーン』(1941年)の撮影でグレッグ・トーランドが開発した。トーランドは、広角レンズと強力な照明で深い焦点距離 (ディープ・フォーカス)を作り上げた。しかし彼の撮影技術で最も画的に目立った特徴は、光の強いコントラストだった。彼は役者の顔に抑えの照明で黒々と した深い影を残して目立たせた。それは慣習的な1930年代の映画撮影のスタイルにまったく反することだった。『市民ケーン』の照明は、通常のものからは 逸脱していたので、ローアングルで広角レンズを使ったウィリアム・ワイラーの『我等が人生最良の年』(1942年)や抑えられていない黒々とした影は『君 去りし後』(1944年)のリー・ガームスによって模倣された他には、すぐに影響をおよぼすことはなかった。トーランドの技術の薄められたバージョンはい くつかの1950年代の映画、例えば『拳銃王』(1950年)に見ることができる。

1950年代には、モノクロは次第にカラーに変わるようになった。しかし、これらは映画技術に限定的な効果をもたらすものではなかった。1930 年代に後半にテクニカラーが現れてから、カラーを撮影するキャメラマンの標準的な対応は、背後からの照明はそのままに保て、しかし輝度は落とせだった。こ れは白黒テレビに比べて、フィルムは未だに美しく映ることを意味した。

1960年代に照明に関する真に根本的な変革があった。最初、ヨーロッパの照明はアメリカのキャメラマンあるいは撮影監督(彼らはこう呼ばれるこ とを好んでいる)の影響を受けていた。新しい形は、ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』を撮影した、写真ジャーナリストだったラウール・ク タールからもたらされた。ゴダールはロケ現場の「自然光」だけで撮影することを要求した。クタールはこれを高感度フィルムで行い、特別な現像でさらに増感 した。

この後、クタールは屋内の「自然光」を補光するのに、小さな写真用ライトを天井に向けて反射させて照明をして自分の仕事を簡単にした。この間接的 な「ソフトな」照明は、これまでの、人物に向けてまっすぐに光を当てていた直接照明に大きな変化をもたらした。※<5> ソフトな照明は、大 きなランプが入った白い外面で覆われた反射光で作られ、窓を通して部屋に入ってくる空からの光と同様で影を作ることがほどんどない
そのような照明は、また半透明の材質の大きなシートを通した強い光によって作られる。それはディビッド・ワトキンがピーター・ブルックの『マル キ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者によって演じられたジャン・ポール・マラーの迫害と暗殺』(1966年)で行なった方法だった。アメ リカでの「ソフトな照明」のはじまりは、ヒッチコックの『引き裂かれたカーテン』であった、そしてハスケル・ウェクスラーはノーマン・ジュイソンの『華麗 なる賭け』(1968年)で行なった。

※5「ソフト」な照明:フレームの外の壁に並べられたランプに注目。

『気狂いピエロ』

手持ちカメラもまた、撮影をスピードアップするか、『イージー・ライダー』(1969年)のニューオリンズのシーンのように刺激を増す方法として 1960年代に重要なものになった。1970年代に、スムーズな移動撮影を可能にした、キャメラを保持する方法の大きな変革がスティディカムの発明だった 『ウディ・ガスリー わが心のふるさと』(1976年)で発明者のギャレット・ブラウンによって操作され、新しい撮影の可能性として監督たちを喜ばせた。 スティディカムはまた、移動レールを敷かないために予算の節約をもたらし、製作部を喜ばせた。
『シャイニング』スティディ・カム操作中のギャレット・ブラウン

1980年代は、多くの映画製作者たちは、イーストマン・コダック社が常に努力して、現実の世界の色に、自然な「正しい」色に近づくように作られ たカラーフィルムを拒否した。代わりに彼らはレンズにフィルターを使い、色を付けた照明をするか、現像所で現像過程に変化を加えた。※<6>  照明について、プロの間で議論になった大きな話題は、特別な「ルック」を探し、キャメラマンはいかにしてそれを作り上げるのか、彼らは独自の技術を用い て熱心に自分のスタイルをフィルムに残していった。

※6 ヨーロッパの撮影監督がたくさんハリウッドに来ている時期で、『地獄の黙示録』などのヴィットリオ・ストラーロ、『ディア・ハンター』『天 国の門』のヴィルモズ・ジグムンドがフラッシングというネガに光を当ててコントラストを弱くする効果を生み出した。これは当時のコダックのフィルムの発色 が派手で鮮やか過ぎたためと考えられる。
ロメールやトリュフォーの映画のネストール・アルメンドロスは、自然光を巧みに使い、『天国の日々』は日没後のマジックアワーに撮られた。彼は自著の「カメラを持った男」で、どのようにしてルックを選ぶのかについて例を上げて説明している。

『天国の日々』

1980年代を通じて、そぐわないようなシーンであっても、濃いスモークを使うことがより一般的になってきた。この10年間でもっとも影響を与え た照明はスモークを絶え間なく使用した、リドリー・スコットの『ブレード・ランナー』(1982年)での、ジョーダン・クローネンウェスの仕事だった ※<7>。シーン内では常に背後から強いビーム光線で照らされるか、光源がフレームの中にあるため、役者の後ろにある霞んだ光の壁が、役者の 顔よりも明るくなる効果を生み出している。リドリーはこのアイディアは『市民ケーン』から来ていると言った。私は特に映写室のシーンからだと推測してい る。昔からキャメラマンは、常に役者の顔が暗い(露光不足)になることを避けるために、背景は役者より少し暗めに照明していた。

※7:リドリー・スコットのスモークは、彼の出身だったCM撮影に由来している。『エイリアン』では、宇宙船内でのスモークは、火事では無いかと思われると云われ使用を少なくした。

今日、主なキャメラマンの照明スタイルはソフトとハード(直接)の使用の中間にある。シドニー・ルメットの『Critical Care』(1997年)では、ディビッド・ワトキンにソフトな照明の極端な形を見ることができる。一方では、強い光をまったく柔らげることなく撮られた 『キャンディマン』(1992年)でのアンソニー・B・リッチモンドの仕事がある。

 

ホックニーと映画


デイヴィッド・ホックニーの作家の視点からの、絵画に対する考察の過程が面白くスリリング。いますこしずつ写真芸術のことなど調べているから、かれの絵画と写真の関係についての考えを読んでドキッとしました。

写真は現実の記録として完璧なものと思いがちだが、それはルネッサンス絵画の究極の姿にすぎない。写真とは、ルネッサンスの遠近法理論にもとづく機械である。15世紀のイタリアで消失点が発見され、この遠近法は人類最大の発見のひとつとされた。小さな穴を通してスクリーンに写るフィレンツェの姿を見ていたブルネスキは、それを固定した視点から描いた。(中略)カメラは写真術のはるか昔、16世紀になってそれにレンズが付いたのだ。19世紀の写真術は、小さな穴を通して壁に写る外界の姿を化学的な処理によって定着させただけのことである。写真は化学的な発明としては新しいものだったが、視覚的な発見としては15世紀に遡る。その意味では写真は何かの始まりではなく、終着点なのだ。
そして、写真を越えるものが現れる。従来の写真ではとらえることの出来ない真実に迫り、現実をより鮮明に表現することができれば、写真を越えられるはずだ。それをするのがキュビスムの絵画なのだ。

そして、ピカソがなにを描いてきたのかを解き明かす。

僕の場合、時間はかかったが、他の人の見解とは逆に、ピカソの絵において物の形は何も歪んでいないことがはっきりと分かった。確かに、対象を見る視点を固定し、凍りついた時間の中で瞬間的にとらえようとする立場からすれば、歪んでいるように見えるかもしれない。だが、ピカソは、時間も絵の中に取り入れているのだ。対象を捩じ曲げて表現しているのではないことがわかれば、彼の絵が次第に真実のものとして見えてくる。普通の自然主義の絵の方が現実味を失って見えてくる。

ピカソとワトーの大きな違いについて僕は説明した。ワトーの場合、女性の化粧の様子を別の部屋から扉越しに覗くような設定になっている。ところがピカソの絵では、モデルの背中も正面も同時に見えるので、この絵の鑑賞者は自分の位置が分からなくなってしまう。つまり、この絵を見ている人は絵の中にいるようなものなのだ。つまり、絵の外にいてそのまわりを回っているわけではなくの。ワトーの絵では、鑑賞者は鍵穴から覗いているようなものだが、ピカソの絵はそうではない。
ワトー「秘めた化粧」ピカソ「横たわる女」

ここでわたしが思ったのは、キュビスムやピカソの問いかけは、映画が受け継いだのではないかということ。
例えばアンドレ・バザンが顕揚した、オーソン・ウェルズやウィリアム・ワイラー、ジャン・ルノワールの長回しを主体とする方法は、時間の経過とともに構図(フレーム)が変わっていくことに着目することができる手法だ。この場合消失点は、キャメラが動きや移動によって複数となると云っても良いだろう。絵画や写真とは明らかにちがう映画独自の表現だ。
その一方でモンタージュという手法がある。これは物語を効率的に語る手段と思われているが、上記の文脈に当てはめてみると事情が異なって見えてくる。絵画や写真の持つ消失点を無効にして、繋がらない空間を時間軸の中で繋げることへの欲求から生まれてきたということも言えないだろうか。

いまはもっとこれらが高度に組み合わさっているが、基本的にこのことに自覚的かどうかが、映画を無意識に面白いと感じるヒントであるような気がする。

わたしの中では、優れた映画作家かどうかを見極める基準のひとつは、基本的にタテ構図を使わないことにある。要するに消失点を見せない構図を作りや、キャメラや役者を動かすことができるかどうかなのです。
要するに映画が最終的にスクリーンという二次元だということにかどうかにどこまで自覚的かということですね。そうでないと見かけの三次元の現実に寄りかかってしまい、映画を単なるキャメラによる記録媒体にしてしまっていると言う事になります。

近代の画家達は、自分が現実世界を相手にしていると思っているが、その世界というのが写真のような姿をした世界なのだ。彼らは、それを芸術的に表現することが創造活動だと思っている。しかし、世界とはそのようにたやすくとらえることのできるものだろうか。僕はそうは思わない。ある固定観念によってとらえられたと思っても、すぐにそれを逃れてしまうというのが現実というものなのだ

それとどのように戯れてゆくのか。ある時は逆にドキュメンタリーやロッセリーニのように崩していく。ゴダールの出鱈目に見えるやり方も実は意識的に行われていることがわかります。「時間と空間の戯れ」それが映画の遊びであり愉しみだと思います。

ところでホックニー自身は映画を作らないのかという質問にこう答えています。

映画の製作者達はスクリーンが平らな表面であることを忘れてしまっている点で明らかに間違っている。彼らはスクリーンという表面の存在を否定し、その奥を見せようとする。スクリーンの上で物を見せようというわけではない。つまり、眼前の事実をないがしろにしているのだ。

ホックニーの作品に動きと広がりを感じるのは、複数の継続する時間と消失点があるからなのでしょう。

 

今日の一言

若き日のフランソワ・トリュフォーは、まるで一三世紀のニュース映画を見ているようだと感嘆するのだが、私としてはニュース映画ではなく、記録映画と言いたいのである。フランチェスコの弟子のうちの三人が、16ミリカメラを扱うカメラマンと助手と録音係りで、機械一式やフィルムや映画的技術や技法は神の御加護によって与えられ、真に敬虔なそして無邪気な信仰心が、三人の修道士たちに奇跡のフィルムを撮影させたドキュメンタリーが『神の道化師 フランチェスコ』で、ロッセリーニは、偶然手に入れたそのフィルムを編集しただけなのだ、と言われても私は信じるだろう。

金井美恵子「スクラップ・ギャラリー」

■神の道化師、フランチェスコ (1950)Francesco, giullare di Dio

そして、ゴダールが絶賛したズームレンズを使う演出で映画の可能性をさらに広げる。これほどあからさまにズームと言う機械的メカニズムを使っているにも関わらず、逆にそのことで劇映画とドキュメンタリーの境界が揺らぐ。
■ルイ14世の権力奪取(1966) La prise de pouvoir par Louis XIV

最後の作品では、複雑なカメラワークに達する。もはやドキュメンタリー(記録映画)を越えて映画自身の定義すら凌駕してしまう。フレームって何?映画にとって構図は必要か?
ちなみに撮影は、トリュフォー作品や『天国の日々』のネストール・アルメンドロスです。
■ポンビドゥーセンター(1977)Beaubourg, centre d’art et de culture Georges Pompidou