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ロバート・ロドリゲス Canon 7Dを使ってミュージックビデオ撮影

Philip Bloomさんのブログで、ロバート・ロドリゲス監督が、Canon 7Dを使って、ミュージック・ビデオを撮影している記事があったので、機材を確認してみました。コメント欄の後半に機材を提供した撮影監督の、Jimmy Lindsey さん(本人のサイト)の解説コメントがあります。彼はロドリゲスと『Machete』でも組んでいます。

眺めているだけで楽しいですねぇ。一体総額でどれくらいになるんでしょうか?
http://philipbloom.co.uk/2010/03/02/robert-rodriguez-shooting-music-video-on-2-canon-7ds/

カメラ Canon 7D
レンズ 70-200mm F2.8
レンズフード Camrey ラバーフード
マイク Rode Video Mic
ギア  ZACUTO ZDSLR-MM
ワイヤレスフォーカスコントローラー Preston FI+Z
モニタ panasonic 7inch(撮影モニタ用)panasonic 17inch(カメラ助手のフォーカス送り用)
HD→SD変換 AJA HA5 Canon 7DカメラのHDMI出力をSDに変換して2台のモニタに送るコンバーター
AJA HA5用電源 SONY MバッテリーとNebtekアダプター
FI+Zと撮影モニタ用電源 (たぶん)SONY BPバッテリーDタップケーブルの出力付きアダプター(こういうものだと思います)

右肩のところに積み上がっている機材は、上から

Mバッテリー
Nebtekアダプター
FI+Zのトランスミッター
(たぶん)SONY BPバッテリー
Dタップコードの出力付きアダプター

完成したMVはこちら
http://link.brightcove.com/services/player/bcpid271548326?bctid=82322677001

 

映画撮影技術の簡潔な歴史

イギリスの映画協会(BFI)のサイトに短い映画撮影技術の歴史というページがあってまとまっていたので訳してみました。これが基礎知識になると思うのですが、わかりますか?観客の視点でこれを読むとどう感じるのかなと思いました。ご意見・ご感想をお待ちしています。
※は、私が書いた訳注です。
http://www.bfi.org.uk/sightandsound/feature/49524

映画創世記のはじめの数年間、キャメラマンは存在しなかった。初期の映画製作者たちはストーリーを考え、セットを作り、役者を演出し、カットの構 図を決めてキャメラを廻すまで、なんでも自分たちで行なった。ジョルジュ・メリエスやジョージ・アルバート・スミス<※1>のような人たちは 才能、知識、創造性、技術があったので、これらのことを簡単に成し遂げることができた。彼らが撮影したシーンの照明は、メリエスや彼の追随者が作った、ガ ラスで覆われた屋内スタジオの中で柔らげられた太陽光か、または屋外の直射日光だった。

※1ジョージ・アルバート・スミス:イギリスの初期の映画製作者。1906年にキネマカラーと言うカラー現像方法を考案している。

映画が、ワンカット以上で作られるようになると、1903年から専門のキャメラマンが付くようになった。1906年の全世界的な映画の流行は、 ニッケルオデオンへの更なる映画の供給を要求した。そして昼間の太陽光のある時間に撮影するために、ガラスで覆われた大きな屋内スタジオでの安定した照明 が必要とされた。このことは特別に改造された街灯のアーク灯を柔らげられた人工光として太陽光に加えることを意味した。一つのアークライトを使い、暗い シーンで、ある範囲に一面から光を当てることで不吉な雰囲気を出すことができた。1912年頃の表現主義映画では下から照明されていた。

その一方で、屋外シーンでは「バック・ライティング」と呼ばれる新しい方法が1910年に現れた。これは、カメラの後ろから役者に顔を照らすとい うのではなく、太陽光をキャメラの方に向けて、役者の背中に光を当てることだった。明るいカルフォルニアの太陽のもとでは、バックライティングは、役者が 影の中に埋もれることを避けるために、キャメラの下に置いた白い反射布から役者の顔に反射させた光と、調和させなければならなかった。

この方法は1914年に屋内撮影でも使われるようになった。背後からの光は、劇場仕様のアーク灯のスポット・ライトによって、光のビームとして狭い範囲に集中して役者に当てられる。役者の顔に正面から当てる光は、太陽光から(広い範囲を照らす)フラッド・ライトになった。

この頃まで、役者とセットは一緒にまとめて照明されていた。しかし、第一次世界大戦中、新しい映画照明についての基本コンセプトがアメリカ映画で 確立された。まずセットの照明を行い、それから別のライトで役者の照明を行うという方法だ。ヨーロッパのキャメラマンが昔ながらのやり方を続けていたが、 アメリカの撮影技術は20世紀を通じて先導し続けることになる。トップレベルのスチル写真撮影者たちが新しいキャメラマンとして、戦争の間に映画産業に やってきて注意深く照明の角度を決める技術を見せた。彼らのひとりにチャールズ・ロシャーがいた。彼はメアリー・ピックフォードと契約して彼女が主演、製 作する映画の撮影を行なった。
(チャールズ・ロシャー、メアリー・ピックフォード、エルンスト・ルビッチ)

同じ時期に「軟調(ソフト・フォーカス)」効果は、次第にスチル写真技術から、映画撮影技術に侵食してきた。この「美学的」な霞んだシーンの極端 な使用がD・W・グリフィスの『散り行く花』(1919年)で、ヘンドリック・サルトフの影響のもとに行われた。彼はグリフィスのキャメラマンだったビ リー・ビッツァーに取って代わるようになった。軟調は1920年代を通じてアメリカ映画の基調となり、次第にヨーロッパに広がっていった。
『散り行く花』

映画のシーンはますます役者のクローズアップのカットを重ねるようになってくると、キャメラマンは、人物の照明のやり方を規格化するようになっ た。キー(主)ライトは通常、スポットライトで顔の形をくっきりさせる。フィル(抑え)ライトは通常フラッドライトで、顔の凹凸の影を消す。そして、バッ クライトは先ほど書いたとおりである。これは三点(スリーポイント)照明と呼ばれるようになるが※<2>、実際は1920年代のアメリカ映画 では二台のバックライトが、アタマの両側から使用されていたので、四点照明だった。1925年頃のパラマウント映画、例えば『子の心親知らず』(1925 年)などで見ることができる。そして他社のキャメラマンも同じような照明をしていた。「グラマー・ライティング」※<3>の秘密は、キーライ トとフィルライトがキャメラのすぐ両脇に置かれ、ほとんど同じ強さでバックライトが別の方向から近づくことによって生み出された。そしてもちろんものすご いソフトフォーカスを使っている。

※2 スリーポイント照明:http://www.mediacollege.com/lighting/three-point/simulator.html
※3グラマー・ライティング:ジョゼフ・フォン・スタンバーグ作品の、マレーネ・ディートリヒの顔への照明がわかりやすいと思われる。

ほとんどの監督はキャメラマンに構図を決めさせた。そしてキャメラマンは、大部分のアイディアを過去の古典的絵画から持ってきていた。撮影技術に 現代美術の影響を取り入れることはほとんどなく、それは何をどのように撮影するかを自分自身で決定した、一握りの有能な監督たちの手によってなされた。そ の最初のひとりはフリッツ・ラング。彼のアイディアは幾何学的な抽象芸術から来ていた。その次はセルゲイ・エイゼンシュタイン。彼の構図は完全にアヴァン ギャルド芸術に対する彼の個人の統合からもたらされたもので、キャメラマンが作り出したものではない。

1920年代には、様々なカメラの動かし方(移動、パン、ティルト)への関心が起こった。それは『最後の人』(1924年)を作ったF・W・ムル ナウのようなヨーロッパの映画監督が主導した。これはカメラを動かすことが、大変な作業になり、献身的なキャメラ・オペレーターが必要になってきたことを 意味している。キャメラ・オペレーターは原則的にはキャメラマンの管理下で作業をする。キャメラマンは今やすべての注意を照明に向けることになる、そして 現場ではキャメラ・オペレータと区別するために「ライディング・キャメラマン」※<4>と呼ばれた。そしてキャメラ・オペレーターは助手また は、キャメラの動きに要求に応えるためピント送りをする「フォーカス担当」を従える。

※4ライディング・キャメラマン:イギリスでは撮影監督はそのように呼ばれる。

1930年代、すべての長編映画の撮影技術は、洗練され定型化されて目に見える逸脱は殆どなかった。ヨーロッパ人たちは、アメリカ人よりは少ない 照明を使って、彼らの技術革新を取り入れていた。にもかかわらず、いくつかの実験が進められていた。それは主に深い被写界深度を得るため試みられていて、 オーソン・ウェルズの『市民ケーン』(1941年)の撮影でグレッグ・トーランドが開発した。トーランドは、広角レンズと強力な照明で深い焦点距離 (ディープ・フォーカス)を作り上げた。しかし彼の撮影技術で最も画的に目立った特徴は、光の強いコントラストだった。彼は役者の顔に抑えの照明で黒々と した深い影を残して目立たせた。それは慣習的な1930年代の映画撮影のスタイルにまったく反することだった。『市民ケーン』の照明は、通常のものからは 逸脱していたので、ローアングルで広角レンズを使ったウィリアム・ワイラーの『我等が人生最良の年』(1942年)や抑えられていない黒々とした影は『君 去りし後』(1944年)のリー・ガームスによって模倣された他には、すぐに影響をおよぼすことはなかった。トーランドの技術の薄められたバージョンはい くつかの1950年代の映画、例えば『拳銃王』(1950年)に見ることができる。

1950年代には、モノクロは次第にカラーに変わるようになった。しかし、これらは映画技術に限定的な効果をもたらすものではなかった。1930 年代に後半にテクニカラーが現れてから、カラーを撮影するキャメラマンの標準的な対応は、背後からの照明はそのままに保て、しかし輝度は落とせだった。こ れは白黒テレビに比べて、フィルムは未だに美しく映ることを意味した。

1960年代に照明に関する真に根本的な変革があった。最初、ヨーロッパの照明はアメリカのキャメラマンあるいは撮影監督(彼らはこう呼ばれるこ とを好んでいる)の影響を受けていた。新しい形は、ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』を撮影した、写真ジャーナリストだったラウール・ク タールからもたらされた。ゴダールはロケ現場の「自然光」だけで撮影することを要求した。クタールはこれを高感度フィルムで行い、特別な現像でさらに増感 した。

この後、クタールは屋内の「自然光」を補光するのに、小さな写真用ライトを天井に向けて反射させて照明をして自分の仕事を簡単にした。この間接的 な「ソフトな」照明は、これまでの、人物に向けてまっすぐに光を当てていた直接照明に大きな変化をもたらした。※<5> ソフトな照明は、大 きなランプが入った白い外面で覆われた反射光で作られ、窓を通して部屋に入ってくる空からの光と同様で影を作ることがほどんどない
そのような照明は、また半透明の材質の大きなシートを通した強い光によって作られる。それはディビッド・ワトキンがピーター・ブルックの『マル キ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者によって演じられたジャン・ポール・マラーの迫害と暗殺』(1966年)で行なった方法だった。アメ リカでの「ソフトな照明」のはじまりは、ヒッチコックの『引き裂かれたカーテン』であった、そしてハスケル・ウェクスラーはノーマン・ジュイソンの『華麗 なる賭け』(1968年)で行なった。

※5「ソフト」な照明:フレームの外の壁に並べられたランプに注目。

『気狂いピエロ』

手持ちカメラもまた、撮影をスピードアップするか、『イージー・ライダー』(1969年)のニューオリンズのシーンのように刺激を増す方法として 1960年代に重要なものになった。1970年代に、スムーズな移動撮影を可能にした、キャメラを保持する方法の大きな変革がスティディカムの発明だった 『ウディ・ガスリー わが心のふるさと』(1976年)で発明者のギャレット・ブラウンによって操作され、新しい撮影の可能性として監督たちを喜ばせた。 スティディカムはまた、移動レールを敷かないために予算の節約をもたらし、製作部を喜ばせた。
『シャイニング』スティディ・カム操作中のギャレット・ブラウン

1980年代は、多くの映画製作者たちは、イーストマン・コダック社が常に努力して、現実の世界の色に、自然な「正しい」色に近づくように作られ たカラーフィルムを拒否した。代わりに彼らはレンズにフィルターを使い、色を付けた照明をするか、現像所で現像過程に変化を加えた。※<6>  照明について、プロの間で議論になった大きな話題は、特別な「ルック」を探し、キャメラマンはいかにしてそれを作り上げるのか、彼らは独自の技術を用い て熱心に自分のスタイルをフィルムに残していった。

※6 ヨーロッパの撮影監督がたくさんハリウッドに来ている時期で、『地獄の黙示録』などのヴィットリオ・ストラーロ、『ディア・ハンター』『天 国の門』のヴィルモズ・ジグムンドがフラッシングというネガに光を当ててコントラストを弱くする効果を生み出した。これは当時のコダックのフィルムの発色 が派手で鮮やか過ぎたためと考えられる。
ロメールやトリュフォーの映画のネストール・アルメンドロスは、自然光を巧みに使い、『天国の日々』は日没後のマジックアワーに撮られた。彼は自著の「カメラを持った男」で、どのようにしてルックを選ぶのかについて例を上げて説明している。

『天国の日々』

1980年代を通じて、そぐわないようなシーンであっても、濃いスモークを使うことがより一般的になってきた。この10年間でもっとも影響を与え た照明はスモークを絶え間なく使用した、リドリー・スコットの『ブレード・ランナー』(1982年)での、ジョーダン・クローネンウェスの仕事だった ※<7>。シーン内では常に背後から強いビーム光線で照らされるか、光源がフレームの中にあるため、役者の後ろにある霞んだ光の壁が、役者の 顔よりも明るくなる効果を生み出している。リドリーはこのアイディアは『市民ケーン』から来ていると言った。私は特に映写室のシーンからだと推測してい る。昔からキャメラマンは、常に役者の顔が暗い(露光不足)になることを避けるために、背景は役者より少し暗めに照明していた。

※7:リドリー・スコットのスモークは、彼の出身だったCM撮影に由来している。『エイリアン』では、宇宙船内でのスモークは、火事では無いかと思われると云われ使用を少なくした。

今日、主なキャメラマンの照明スタイルはソフトとハード(直接)の使用の中間にある。シドニー・ルメットの『Critical Care』(1997年)では、ディビッド・ワトキンにソフトな照明の極端な形を見ることができる。一方では、強い光をまったく柔らげることなく撮られた 『キャンディマン』(1992年)でのアンソニー・B・リッチモンドの仕事がある。

 

天才 勝新太郎

勝新太郎の映画人としての生涯を、当時のスタッフへの聞き書き、資料を中心にして追っている。彼がどのようにして、白塗りの売れない二枚目を捨てて、薄汚れた盲目の検校になり役者として開眼したか。そして監督として目覚め、ついには「俺が座頭市だから俺にしか分からない世界」へと入り込んでしまった経緯などが、これまで断片的に書かれて来たことがまとめられている労作です。

水道橋博士がTwitterで紹介していた番組。本書を読んだ後にご覧下さい。
(イイです…)

 

歴史は女で作られる

1955年、当時のフランス映画で最高規模の予算を掛けた、マックス・オフュルスの作品。主演のマルティーヌ・キャロルは、ブリジット・バルドーが出てくるまではフランスを代表する女優だったそうで、彼女が主演するから興行的にも大丈夫だと考えられていたが、大失敗の結果に終わり、オフュルスの知らないところで再編集が行われて公開されるが、やはり失敗に終わる。今回は失われた部分を修復して復元されたプリントの上映。こちらの記事で詳しく書かれています。
http://d.hatena.ne.jp/kinokos/20100217/p1
ニュープリントはいいなあ。フランス映画らしい豪華さが良く出ていました。色彩へのこだわりが随所に見ることができて、何度か観ないとその企みがどのように考えられたのか認識することは不可能なほど徹底している。豪華絢爛、いやそれ以上に、統制が取れているが、抑制はしていないというほうが正しいでしょう。

主人公のローラ・モンテスは実在の人物なのですね。
http://www.geocities.jp/coutesans/3l.html
逆に毒婦と呼ばれたその生涯を知らなかったから楽しめたような気もします。豪華絢爛をスペクタクルと書き直し、それを見世物と改めて定義して、人生を舞台として描く。最初、見世物小屋にローラが現れたときには、ああこれは『8 1/2』や『オール・ザット・ジャズ』のように幻想シーンなんだなと思っていたら、本当に見世物小屋に出演していることが分かってびっくりする。しかも表舞台と同様に、舞台裏の人物模様がとても詳しくリアルに描かれるのでものすごく生々しく感じてしまう。
対するローラの波乱万丈の生涯は、こちらの方が観客にとってはメインの物語であるはずなのに、幻想のように現実感がどんどん薄れてゆく。しかし描き方はそんな単純な対比ではなく、むしろドラマチックでありロマンチックであればあるほど、現実感が消えていくという倒錯した感情を抱くことになる。どうしても物語の中に入らせてはくれないのだ。
スペクタクルを見世物と再定義した段階で、この映画は呪われた映画にならざるを得なかったと思う。全体を覆う暗さは、本来はメロドラマになってもいいはずなのに、歴史上の人物である男たちは道化として取り扱われて、彼らに注がれる視線はニヒリズムに近い。でも画面や作劇ではユーモアがあり、セリフも洒落ているのでつい見逃してしまう。この居心地の悪さは最後まで払拭できない。
ドイツとフランスの国境をめぐる争いの地に、フランス人として生まれ、ドイツで映画監督としてのキャリアを始めて、戦火を逃れるためにアメリカに渡ったオフュルスならではの世界観ではないだろうか。
極端なフラッシュバックのによる構成は、現在ならもう少し柔軟に多様な解釈が許されるだろうが、当時これだけ複雑に様々なレベルに訴えかける映画は、受け入れられなかったのだろうなと思われる。限りなく細かいディテールの描写だけでできていて、それが集まって途轍もない別の画が織り上がってきたような映画です。

今回、馬車の移動が官能的でしたが、今回若き日のローラが失意の船旅をしていて、夜、甲板に出て舳先まで歩いて行くと、水平線の彼方に陸の灯が見えて、カメラが上を向くと、星空が広がるシーンが船の揺れとともに官能的でした。

※ラストの個人的な解釈(ネタバレ)

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インビクタス

盟友、モーガン・フリードマンの依頼で、雇われ監督という地位を楽しみながら作った映画ではないだろうか。イーストウッドが、もしこの題材に入れ込んでいたら、もっと切迫した作品になっただろう。でも今回は、たぶんモーガンの為に、彼の想いをすべて要求通りに受け入れたのだと思う。そうでないと、こんな地味な企画は通らないからね。
最初の、夜が開ける前に、ネルソン・マンデラがベッドから起き上がり、丹念にベッドメイクをするのを俯瞰から撮るカットで唸った。誰も見ていないのに、長年の監獄生活から未だに彼自身が逃れられていないことを象徴している不気味さ。その心の闇が、実は最後まで映画全体を包んでいる。もちろん、裏テーマで見せようとしているのではなく、もっと深く人間の本質に根付いたものであって、どちらが正しいかという問題ではない。それがイーストウッドが終生追い求めているテーマだと思う。だから、マンデラが収容されていた刑務所を訪れるシーンが、この映画の中でもっとも鮮やかな印象を残すのだと思う。
マンデラや、マット・デイモン演じるラグビーチームの主将も、和解、赦しを口にして、また自ら行動するのだけど、心の奥の戸惑いや、そこまで自身が達していない様が、さりげない表情や視線で細やかに描かれる。
まったくこの円熟味はなんだろうか。そこから導かれる限りない豊かさと広がりは現実の出来事すら包み込んでしまうように感じる。
映画という限られた時間の中で語られる物語の外に、もっと長い時間やもっと広い空間があり、キャメラで切り取られた部分はその一部に過ぎないことが見事に描かれている。
ある意味、文学でしか描けないような内面描写まで映画で描けるようになってきている。しかも窮屈な制約でなく、伸び伸びとして。イーストウッドの最近の作品がいつまでたっても終わらないし、終わって欲しくないという印象を受けるのはこのためだろうか。

インビクタスの詩全文