CineTeQをはじめたきっかけ

CineTeQ http://cineteq.ryotsunoda.net/

映画のSNS「CineTeQ」をなぜはじめたいと思ったかを前回の投稿に追加して書くと次のようになります。(Twitterからの転載加筆)

映画が製作から上映までフル・デジタル化される時代を迎えて、これから増々加速化断片化へと映画は進んでいくでしょう。これまで、映画鑑賞はひとりひとりの観客が暗闇で同じ方向を見つめる秘かな共有の体験だったはずなのに、加速化断片化によって、その最小限の行為すら、次々ソーシャルメディアに流れる他者の批評の言葉によって押し流されてしまうのではないかという危惧があります。

平たくいうと「このように見ろ」という見えない圧力のようなものが常に瞬時の反応することを強要して、なにかを感じる前にアタマで受け止めるクセがついてしまうことを恐れます。見終わったあとになんだかわからないけど、すぐに言葉にできない時にぼんやりと映画を反芻しながら判断を少しの間保留することが思考停止が同一化されてしまうことを恐れます。自分なりのテンポで映画を噛み締めて感じたことを少しずつ自分の言葉で語ることができることが、大喜利のように当意即妙な正解っぽいツイートをするよりも大切だと思うのです。映画の見方はそれぞれあって良いと思うし、映画好きが出会って共通の言葉を見いだせなかったらつまらないのではないかと単純に思います。

一方で今後映画をめぐる市場は細分化されて多様化するから(インディーズ的な)映画は良い方向に進むのではないかという意見もあります。そのことは理解しますが個人的には疑問が残ります。日本文化の特質として、ものごとの細部にこだわり洗練して先鋭化するクセがあります。ヲタク的な細部へのこだわりによってカテゴリーの広がりと多様化が起こりやすくなり完成度が高いものが出てくる可能性が出てきます。しかしその一方であまりにも細かいこだわりのために排他性を生み出す可能性も同時に出てきます。現在の日本のテレビゲームやアニメ文化などをどう読み解くかはその延長上にあるのではないでしょうか。

わたしなりの極論を言ってしまうと、この先クリエーターとマニアしか存在しない「日本の映画文化圏」が出来上がるのではないかとも考えています。問題は一見そこに多様性はあるように思えるけれど、実はガラパゴスだったということが起こるのではないか。特殊性は一概に悪いとは言えませんが、世界の潮流を無視して内向きな業界になることは避けたいと思います。いくつかの権威に従った見方が正解のような風潮になるのは映画の本来持っている多様性を失うことになりかねない。茶道や華道のような誰それの筋だからというレッテルで良いとか悪いとかいうつまらない選択肢の罠に陥ってしまう。

その時に一番困るのは、新しいアイディアを持った映画が現れた時に、それまでの映画(美学)のパターンに則っていないからダメだというレッテルが貼られてしまうことではないでしょうか。メディアが多様化しているのに古典的な「映画」だけが映画だと考えられると新しい才能が見過ごされてしまうことになる。いま映像がより身近に多様化しているのに批評の言葉が追いついていないことも強く感じます。映画を「型」が決まった古典芸能にしても仕方がありません。

教科書通りの映画の見方をするのではなく、新しいものと古いものを交差させて立体的で個人的な映画像を作り上げるにはどうしたら良いのか?映画ファンという大きな共通の入り口を作る必要があると思っています。映画マニア同志が固く排他的に結びつくのではなく、映画に興味を持ち始めた人にも映画の愉しみを共有してゆるいつながりを広げて行く方法は何か。

これまでの消費社会に従って考えれば「区別」「差異」「差別化」を促進して「買い続ける」することが正解なのでしょう。ただ311以降の社会を考えるとそれだけではもう足りない。ひとりひとりが個性的であると共に「体験の共有化」が大切になると思います。豊かな「映画(映像)」体験をキーワードにして個人が考えていけば映画と人のつながる切り口は無数にあるのではないでしょうか。

今回のSNS、CineTeQでは、その方法として実験的にList機能を採用してみました。自分の感性に従ったベストテン・リストを作り発表する。別に10本でなくても良いのですが、クラブイベントのDJのように自分のレコメンドを並べるのです。それを出すことでその人の映画(映像)体験が明らかになるとともに、複数の人の複数の視点からの接点が見つけられると考えました。リスト全体を受け入れても良いし、気に入った一本の作品からまた話が広がっても良いと思います。これまでの作家論や批評という観点からだと抜け落ちるものを受け止められるかなと思っています。しかもこれなら誰でも必ず作れる(笑)コンテンツであり、マニアと初心者が同じ地平で対話できます。深くではなく水平に広がる仕組みなのです。

もうひとつのEventは、スケジュール機能ですが、個人のスケジュールを共有することができれば面白いのではないか。勝手に書き込み映画館や会場で会って語り合うこともできる。映画にこだわらず、映画や映像に関係あるイベントならなんでも良いしテレビ番組でも良い。すべては体験の共有の方向へ。

今はクリエーターになることは昔よりも難しくはありません。しかしクリエーターがいくら増えても観客がいなかったらどうしようもないのではありませんか?そこに一番チカラを入れる必要があるのではないでしょうか。私自身、参加者として大いに楽しみたいと思っています。

CineTeQ http://cineteq.ryotsunoda.net/

映画のSNS、CineTeQをはじめました

CineTeQという映画のSNSのテスト版をつくりました。映画についてゆるく交流できる場所であり、日々流れては消えていく映画に関する膨大な情報がここに来れば手に入る情報誌のような役割になれば良いと考えています。cineteq.ryotsunoda.net

いま、映画についてあまりにも細かく分けられすぎて、同じ「映画」の話なのにお互いに通じない場合が多々ある気がする。もう少しスピードを落として映画についてじっくりと語り合っても良いのではないか。最初から同じ感性の者たちだけが集まりその中での自己主張に留まるのではなく。映画は見るだけでなくノートに書いたり人に話して、それが相手に伝わり緩やかに広がることで完結するのではないだろうか。

淀長さんではないが、私は映画がきらいな人には会ったことがない。どんな人とでも国境を越えても映画の話は伝わる。初対面の年長者との気まずい空気も西部劇の話をすることで消えたし、酔っ払ってイギリスのパブでジョン・ウェイン監督の『アラモ』(見たことないが)についてめちゃくちゃな英語で盛り上げったこともある。自分の好きな映画について語るあまり他の人の好きな映画を受け入れられないのはつまらないと思う。自分の映画体験を豊かにするきっかけを掴みたい。アタマを殴られるような衝撃を映画から受けたい。そういう話を誰かから聞きたいと思う。

個人的体験からいうと、ぴあがチケット前売り情報誌になる前って、そういう感じだったと思う。月刊から隔週の最初の70年代の終わりから80年代の始めの頃。国内、海外の映画の情報やロードショーから名画座、自主映画の情報が分け隔てなく並んでいた。そこでハリウッド第9世代、第10世代についてやロジャー・コーマンがニューワールド社を立ち上げるニュース、もちろんPFFと自主映画の情報はほとんど全部。ぴあを広げて隅々まで何度も読み返して蛍光マーカーで見たい映画をチェックをしながら、スケジュールを立てる。その合間にFM局のエアチェックリストも作る。

いま40代50代の自主映画出身者が日本映画に大きな影響を与えているのも、ぴあを中心としたムーブメントの影響があったと思う。角川映画やツィゴイネルワイゼンのシネマプラセットの試みやロマンポルノの若手登用路線とか。確実に新しい時代が来たという実感があった。今の状況もなんとなくそれに似ているような気がしています。

今はネットがあるのだから、ぴあが無くなったことを嘆くのではなくて、みんなが勝手に情報を持ち寄って作れる時代。ツイッターで流れてくる情報の豊かさはかつての比ではない。SNSがそういう場所になることができたらと思います。自分の感性に引っかかって広めたい情報を書きこんでみる。ひとりでも多くの人と共有して面白かったね、つまらなかったよと言い合えばいいじゃないかな。

「おもしろそう」な映画やイベントについて書き込んでみる。当たり外れは必ずあるが、自分のアンテナを立てて勘をみがくことは大切だと思う。それが最終的に自分なりの映画の見方になるはずだから。それで得た技は映画以外のアートや、もっと大袈裟にいえば「もののみかた」にもきっと活用できるはずだから。自分の知っている知識の中だけで拒否するのではなく、積極的に無駄足を踏むというのは実に貴重で偉大な体験だと思います。

海外の情報ももっとたくさん入ってくると、現在の日本の映画状況もいまどこにいるのか分かりやすくなると思っています。デジタルによって製作・上映の状況が激変しているのときに、内向きになり過ぎないでオープンな議論ができれば、そこから何か新しいものが生まれて来るのではないでしょうか。

この数年思うことは、映画=映像で物語を語る部分が、映像自体を語る方向へと比重が変わっていることです。昔に比べて映像やデザイン構成や音響の使い方が素晴らしい作品が増えています。しかしその一方でシナリオ、編集、演出力の弱さも目立ちます。そのギャップをどのようにして埋めていくのか。どのように映画を楽しみ、楽しめるものにしていくのか。これはクリエーターのみならず、観客や批評メディアを含めた共通の課題になると思います。

映画においても生産者VS消費者という図式は徐々に当てはまらなくなってきているのではないでしょうか。

あと個人的な想いとしては、映画ファンの絶対数を増やしたいです。もちろんCineTeQは、作品と同じで動き出したらコントロールはできないけどね。浪人生の時、名画座の新宿昭和館でタバコの煙でスクリーンがよく見えない二階席で黒沢明の三本立を見た。完全に暇つぶしに来ている客席でも、名シーンになるとあっと息を呑む瞬間がわかるんだよね。たぶんそれは今も初めて黒沢明の作品に触れる人は同じだろうし、外国に行っても同じ反応なんだと思う。 そうそう黒沢明の映画はビデオが普及する前に、ずっとテレビ放映を拒否した時代があって、ある時の確か正月に何本かを連続ノーカット放映したんだよね。そのときに内田裕也が初めて『野良犬』を見て、あまりの感動に「アンタ凄いよ」と言うために車を飛ばして明け方黒沢邸の前まで行ったと言うエピソードを思い出した。

映画の体験は、スクリーンに対峙する限り一人の孤独な作業であり鑑賞かもしれないけれど、一方では時間と場所を越えた共有体験に繋がっていく不思議なものです。その間口をどこまで広げて行けるかではないでしょうか。

CineTeQは、いまのところβ版なので私の個人サイトの別室として作っています。どこかで別ドメインで独立させるつもりです。でもここは個人所有地ではなく、共有地であり広場です。誰もが持つ映画への想いを少しずつ寄せ集めることで、これまでにないものが生まれてくるのだと確信しています。それは映画の未来の姿なのでしょうか。

いま私たちは、SF作家のウィリアム・ギブソンが言った「未来はすでにここある。だが、行きわたっているわけではない  (The future is already here — it’s just not very evenly distributed.)」という状況にいるのです。行きわたらせるためには、過去を振り返り留まるのではなく、歩く見る書く誰かと話すことを続けることなのだと思います。