ウディ・アレン バイオグラフィー    

ウディ・アレン バイオグラフィー

ウディ・アレン バイオグラフィー

ウディ・アレンの映画でいままでにちゃんと観たのは『バナナ』『アニー・ホール』『インテリア』『マンハッタン』『スターダストメモリー』『カイロの紫のバラ』『世界中がアイ・ラブ・ユー』だけ。ニューヨーカーのエスプリを描き、粋なセリフでインテリ層のご用達と呼ばれる監督の映画が、なぜにヨーロッパとアジアの興行がアメリカを上回ることでしか製作費を回収できず、いまやユーロマネーとアジアへのプリセールスが無いと彼のアメリカ映画が作れないという状況になっているのか。なぜアメリカ人いやニューヨークっ子の一部にしか理解できない風俗を、英語もできない外国人がよろこんで観に行くのか?その謎は実は本書を読んでも解明されない。

作者のジョン・バクスターはスピルバーグの伝記のときも思ったけど、徹底して対象者を普通の俗人に仕立て上げる。それほどきついゴシップネタも無いし、かといって彼らの創作の神秘に触れることも無い。よく言えば公正、悪く言えば退屈だ。

興味深い点は、アレンは映画界に入る前の上昇志向の強い人嫌いのテレビスターの変人だった実像を、神経質で繊細なダメ男だけどユーモアのセンスで結局は女にモテるという愛される変人の虚像にすり替えていったということ。そして彼のやっていることはまったくチャップリンと同じということ。浮浪者から放浪者チャーリーへと着替え、完全主義者の監督となり、ロリコンで国を追われるハメとなる経歴。また彼以前のコメディアンのマルクス兄弟やボブ・ホープらは、映画ではユダヤ人であることを前面に出して笑いを取ることは無かったという指摘はおもしろい。すべてを晒しているようにみえるが大衆(インテリ)の嗜好に合わせて巧みに姿を隠しているアレンの映画は、作家の映画というよりも、虚像の分裂気質のメガネキャラが生み出す偽自伝的映画なのだろう。まさにチャップリンと同じく、その「キャラクターが観客に飽きられない限りいつまでも反復せざるを得ない」というジレンマに陥っているのではないだろうか。いつアレンが『殺人狂時代』を撮るかが楽しみだ。

ウルトラマンの東京  

何冊もウルトラネタで書いていて既に『夜毎の円盤』、『ウルトラマンのできるまで』と書かれているがこれはその番外編。ロケ地であった東京が如何に変わっていったかを綴ったエッセー。高度成長期前夜に作られた作品の東京は今ではその姿をほとんど留めていない。これも東京論のひとつなんだろうな。川本三郎のエッセーと同じく、歩いて見て、かつての姿を思う郷愁が心地よい。

余談だが、『ウルトラQ』って35ミリで撮られて、『ウルトラマン』は日本初のテレビ・カラー作品になるはずだったそうだ。

実相寺氏には、他に『ナメてかかれ』という怪作がある。これははちゃめちゃなヲタク監督の姿がうかがえるエッセーあり、寺田農との対談ありという豪華な本だ。まあ、それはいずれまた別の所でご紹介します。