千本組始末記

この本が出版されたときに新聞広告を見て、「読みたい!」と思ったまましばらく放置していたら、どこの書店でも発見できずにいたが、マキノ雅弘自伝「映画渡世」を読み返すたびに、ずっと気になっていた。そしてようやく図書館で見つけ、あまりの面白さに一気呵成に読み終わる。噂によると、本に書かれた関係者が出版された本をかき集めたために市場に出なかったということだけど、そういうこともあるだろうなというくらい、深いアウトローの世界が垣間見える。著者は、それを伝説や武勇伝にせず、ノンフィクションとして資料、インタビューで巧みに構成する。それでもはみ出るほどのスケールの大きさは桁違いだ。ヤクザ、任侠、バクチ打ち、なんでもいい、いや、そこにテキヤ、カツドウヤ、アナキストまで入れ乱れて混沌の世界を形成する。

京都の洛西の外れ、大堰川の流れに沿って山間部から木材が運ばれ、番外地だったところが開けてきた。そこは後の映画産業発祥の地と重なる。戦前の時代劇映画でよく木場、貯木場が現れるのは、何のことはない、そもそもそのあたりが、材木置場だったのだ。千本組の始まりは、恰幅の良い気質の男が、ヤクザと喧嘩して、あまりの強さで、ひとりで相手の組を壊滅させてしまったところからはじめる。これではヤクザの世界に面目が立たないということで、男は嫌々ながらも組の看板を立てることとなる。この男が、笹井静一、幸二郎、末三郎の三兄弟の父だった。

ちなみに、マキノ自伝に出てくる、幼い時に、父省三の指示で真冬の滝つぼに飛び込んで半死の目に遭ったときに、撮影を見学に来ていた母の父(祖父)が激怒して、省三を追いかけたというエピソードがあったが、それが千本組筆頭格、多田虎之助。マキノ省三じは娘婿だったのだ。だからマキノ雅弘も生まれた時から身内だったわけだ。ちなみに幸二郎の娘が女優の大久保清子で伊藤大輔の二人目の妻ということを知って驚いた。

マキノ映画に出てくる、「ヤクザをやってもヤクザな生活をするな」という必ず職業を持っていたアウトローは、千本組の姿に基づくのではないだろうか。「かたぎやくざ」という正業を持つヤクザが千本組の姿なのだ。そこがマキノ映画の特徴であり、彼自身の持つ郷愁でありユートピアだったのではないだろうか。そこを理解しないと、マキノ映画のアウトローが、ヤクザの姿と思ってしまうのではないだろうか。千本組をモデルとしたマキノ自身が知るヤクザの描き方の方が、異端の姿だったのではないだろうか。特にマキノ雅弘と深い関係を持つ、三男の末三郎は、若い日から、アナキストと関わり合いを持ち続ける。そして映画界にも多くの即席を残すが、それは正史には残らない。そして、長谷川一夫の顔斬り事件、様々な本が様々なことを書いているが、この本に書かれた内容は奥深くまで人間関係が絡み合っていて思わず戦慄する。みんな本当のことを知りながら、絶対に口にせず死ぬまで映画業界で一緒に働く。まさに京都の映画界は恐ろしいなぁ。「映画渡世」に書かれていることがまったく別の姿に見えてきた。

戦争が近くなると、末三郎はマキノ満男の依頼を受けて、満映に飛び大杉栄を殺した罪を背負った甘粕と対峙する。そして「あなたにはアナキストたちの面倒をみる義務がある」と言い放ち、映画人、アナーキストを満映に送り込む。そして戦後、東映を立ち上げるのに奔走をした末三郎はこう言っていた「わしはこいつと男と男の約束をしたんや、もうじき満州から大勢の映画関係者が帰ってきよる。早よう受け入れる場所を調えなければあかんのや」。果たして、二人の間でどのような話が交わされたのであろうか。

アナキストととの交流の部分が知識が無く、よく分からなかった部分もありますが、スケールの大きな話として、また「映画渡世」のサブテキストとして欠かせない本です。

立命館大学の冊子に伊藤大輔の二人目の妻、大久保清子(本名伊藤朝子)の聞き書きが載っています。

http://www.arc.ritsumei.ac.jp/oldarc/kiyou/01/tomita.pdf

セルジオ・レオーネ

セルジオ・レオーネ―西部劇神話を撃ったイタリアの悪童セルジオ・レオーネ―西部劇神話を撃ったイタリアの悪童

イタリア映画の黎明期から活躍した映画監督を父に女優を母に持ち、映画界に飛び込むと、数多くの、(ハリウッド映画のローマ歴史劇を含む)助監督を勤め上げ、監督になる。その後はご存知のとおりの活躍、マカロニウェスタンを作り上げた男として映画史に名を刻む。

レオーネの作品は、わっ長いなと思いながら観始めると絶対に途中でやめられない。席も立てない。あれだけのクローズアップがあっても、どれだけそれが長い時間続こうと、大きなスクリーンから目が離せない。

この本を読むと、レオーネという人は、映画ヲタクの始祖だというのがよくわかる。ヌーヴェルバーグの連中がアマチュア批評家出身であるのに対して、撮影所育ちのバリバリの助監督修行を積みながら、観客にアピールするエンターテインメント性、ドラマ性に最大限の価値を求める。だからレオーネの西部劇の細部は、アメリカ西部劇のパクリに満ち満ちている。間違っても歴史に忠実に再現する“良心的な映画作家”とは一線を画しているのだ。画面で見栄えがするのが一番なのだ。晩年は偉大なマエストロとして国際映画祭・映画批評家業界から持ち上げられたので、いわゆるヨーロッパ型の映画作家の系譜として捉えられがちになるが、ここを読み違えるとレオーネがわからなくなる。

ひたすらカッコ良さを生み出す映画的なセンスが抜群なのだ。映画を生み出す素養は、ヨーロッパ的な歴史や文学の流れにはまったく無く、ひたすらアメリカ映画。その名作のあのシーン、あの俳優のあのポーズ。それをひねくれた子どもの悪戯で解釈するとき、レオーネ映画は光り輝く。

暴力の表現は、時代が求めた無意識というのがあるとは思うのだが、ハリウッド映画では決闘の撃ち合いを、撃つ側、撃たれる側を同一画面に入れてはいけない検閲ルールがあったという。

そのお上品さに比べれば、悪ガキは必ず子どもの残酷なまなざしをもっている。それを映画として昇華しようとしながら、ぎゅうぎゅうに詰め込んだオモチャ箱をひっくり返したようなスペクタクルまで拡げたのがセルジオ・レオーネだったのではないか。

それはクリント・イーストウッドが評するように、「西部劇のイタリアオペラ化」だったのかもしれない。

ちなみにイーストウッドのトレードマークのかすれた低音の喋り方は、『荒野の用心棒』でイタリア語吹き替えの声をマネして作り上げた…という説があるそうだ。

ジョン・カーペンターが自分の結婚式で『ウェスタン』のテーマ曲を流した、というのはちょっとイイ話。(名曲だよな、いつ聴いても涙ぐんでしまう…)

本書は解釈の押し付けがないところが共感が持てる。ちょっと詰め込みすぎの感があって、整理がついていなくて読みづらいところもあるが、エピソードが満載なので、好きなことろから拾い読みしていくのが良いです。

■レオーネのドキュメンタリー(全8本)

D■著者、クリストファー・フレイリングの案内による『ウェスタン』のドキュメンタリー

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