映像から音を削る―武満徹映画エッセイ集


武満徹の映画についての文章を読むといつも背筋が伸びる思いがする。甘えや憧れあるいは慣れ合いではなく、映画との距離を取りながら真剣に向かい合っている様が読み取ることができるからだ。本書はこれまでの全集などには収録されていない文章も取り上げられている。
現在の日本映画界の状況からは理解出来ないだろう部分は、いくら斜陽産業と言われようと映画会社の力は絶大でそこから外れた独立プロの作品を製作・配給することがどれほど困難な状況であったか、それを想像することももはやできないのかもしれない。
「映画」という観念の具現化を推し進めると、どうしても最終的に残るのはドメスティックな部分になりがちだ。倒錯した考え方だが国際的な市場でウケる映画は大抵ドメスティックなものなのだ。フジヤマ、ゲイシャ、サムライといったオリエンタリズムのアイコンだ。
武満氏の思索を読んでいると、まず彼の映画音楽は劇伴ではない。映像と立ち向かい映像が語りかけてくる音を「音楽」へと昇華する。だから「音楽」という純粋なイメージを突き詰めるときに、物欲しげな映像は自然と淘汰されていくのではないだろうか。
これは「映画音楽」にある種の固定観念や期待を持った観客や製作者からは疎まれることになるだろう。だからといって彼の音楽自体が観念の世界から降りてこないことはない。映画におけるポピュラー音楽の使い方を見ると真摯な顔の向こうにやさしい表情がみえてくる。
武満氏は映画を愛する余りに映画に全世界性を求めすぎたところがあったのではと思う。その思考のスケール感はきらいではない。むしろこれから私たちが真摯に取り組む部分ではないだろうか。

この歌の由来はこの本を参照。

田宮二郎、壮絶

田宮二郎、壮絶!―いざ帰りなん、映画黄金の刻へ 田宮二郎、壮絶!―いざ帰りなん、映画黄金の刻へ

私が興味を持ったのは、 松竹のプロデューサーであった著者が、田宮を口説き、加藤泰の『人生劇場』に出したあたりのエピソードだ。

60年代の終りから70年代初頭、低迷する松竹では、松竹大船調を作り上げた城戸四郎が現場に復活した。一方その裏で、城戸がいやがるエログロ、反社会的なコメディー路線の製作をして実質的に松竹を興行的に支えた製作者たちがいた。

わかりやすくいえば、コント55号や、ドリフターズの映画、いわゆる“喜劇シリーズ”や、ナベプロやホリプロのタレントが出る“歌謡映画”だ。

「三嶋軍団」と呼ばれたそのチームは、三嶋与四冶映画製作本部長、山内静夫企画部長、脇田企画日次長、升本喜年企画室長、を中心として年間30本近くの作品を量産していた。

数字的な実績を重ねて来て、次に狙ったのが、男性路線だった。しかし、伝統的に松竹は男優の層が薄い。そのために外から呼ぶことになり、日活の渡哲也を松竹の専属にする。このあたりはまったく知らなかった。松竹と渡個人の交渉のあいだに入ったのが、舛田利雄というのなんとなく納得。そしてタイムショックの司会者だった田宮二郎を映画に復活させたのも彼らだった。

そこで東映にいた加藤泰が来て、『人生劇場』『花と龍』『宮本武蔵』へと繋がる。

いままで、メロドラマの松竹大船調と、高度成長時期の泥臭いコメディがどうして同時に存在したのかわからなかったけど、そのあたりがすこし分かった気がする。

またその人脈が、その後テレビドラマに移行していくのだが、人の繋がりがさらに複雑になってくるね。そこを探っていくのが次の課題だろう。

ダリオ・アルジェント 恐怖の幾何学

労作です。個人の情熱でここまで好きな映画監督について書けるなんてすばらしいです。アルジェントの全作品を、ストーリー、製作までの経緯、キャスティング、撮影、編集、音楽、劇場公開、その後まで丹念に調べ上げ、加えてテレビ番組、CM、プロデュース作品、ゴブリンについてまでも(!)細かく紹介されてくる。

作品を中心に書かれているにも係わらず、当時のイタリア映画界の情況などの裏話や細部にも目が行き届いている。そのことで編年体のようにアルジェントの私生活まで浮かび上がってくるのは、アルジェント一族が三代に渡って映画をファミリービジネスとしてやっているからかもしれない。ある意味、半自叙伝になっているからファンには楽しいだろう。

わたしが観ているアルジェント作品は、『サスペリア』『サスペリアPART2』『ゾンビ』(観たのはロメロ版かな)『インフェルノ』『オペラ座/血の喝采』だ。…ヌルイですなあ。

アルジェントは、よく意味不明な殺しのシーンや、摩訶不思議なキャメラワークにのめりこむために、ストーリーが脱線してしまう。そのために失笑されて、評価が低かったりすることが良くある。わたしもそうでした。(『インフェルノ』のあのコックは誰だったのでしょうか?)

本書を読むと、そのあたりがアルジェントの情熱というか衝動として、滑らかなストーリーを語るよりも、あるいは映像美学よりも、バランスを崩してでもどうしても優先したいという気持ちが沸き起こってくるのだということがよくわかる。

お馴染みの黒手袋の殺人シーンは、監督が自ら嬉々として手袋をして演じるというあたりにその本気さを感じますが、うーむ。

また作品のメインのアイディアに(犯罪)科学的な仮説を持ってくるのが好きだという態度が一貫しているのに驚く。『わたしは目撃者』『フェノミナ』『スタンダール・シンドローム』など、ああなるほどと納得する。それはデヴィッド・クローネンバーグやブライアン・デ・パルマに通じるものがあるよね。ってもとを辿るとヒッチコックなのかな。

そこにスーパーナチュラル(魔女)とジャーロ(謎解き)が入り込み渾然一体となっていき、それを独特の映像スタイルと音楽が包み込んでいく陶酔の世界感がアルジェント映画の魅力なんだということに気付いた。

『サスペリア』って、50年代のテクニカラー三色分離方式で撮影したことをはじめて知った。彼の助監督で、のちにプロデュースしたミケーレ・ソアヴィの作品も面白そうですねえ。

作者の贔屓の引き倒しになりがちな本を、自分の解釈を押し付けるわけでもなく、読み手がいろんな方面から自分なりに切り取って分析していくことができる。初心者からマニアまで誰にでも楽しめる編集になっていて、アルジェントの作品世界をより深く楽しめる好書です。

著者の運営ウェブサイトhttp://www.jmedia.tv/argento/

タチ―「ぼくの伯父さん」ジャック・タチの真実

タチ―「ぼくの伯父さん」ジャック・タチの真実タチ―「ぼくの伯父さん」ジャック・タチの真実

ジャック・タチという孤高の作家について当時の評論、証言を膨大な写真とともに振りかえる資料本と言っていいだろう。そこには余計な論評やプライベートの詮索はない。ひたすら真面目である。それゆえ に退屈だけど。タチのどこまでもモダンな作風はだれにも似ていないし、理解はされることはない。同時代のもうひとりの作家ロベール・ブレッソンは、その禁欲さゆえに論評しやすく模倣されやすいのでいま も語られるが、タチはまるで違う。それは彼の映画を何回見てもわからないことだと思うけど。彼の映画製作の姿勢はいまも見習うことは多いと思う。

『プレイタイム』を撮影するためにワンブロック分のビル群をふくむ都市の一角を建設した辺りの記述を読むと、「レオス・カラックス……小さい、ちいさい」と呟きたくなる。

第二幕―ニール・サイモン自伝〈2〉

前作の自伝「書いては書き直し」では、生い立ちとテレビから演劇に進出して、評価を得るまでが描かれていた。これは日本人にはあまり馴染みのない、ニール・サイモン像だった。本書はその後から現在に至るまでの道のりで、いくつものおなじみの演劇や映画が顔を出す。

最初の妻との死別から立ち直り、マーシャ・メイスンとの結婚、ニューヨークからカリフォルニアへの引越し。70年代最後から80年代にかけての、ハリウッドでの快進撃、『おかしなふたり』、『名探偵登場』、『カリフォルニア・スイート』、『グッバイガール』などがアカデミー賞を取る。マーシャとの離婚の失意のあと発表した、いわゆるブライトンビーチ三部作で地位を揺るぎなきものとした。

その後、ブロードウェイでの『グッバイガール』ミュジカルコメディー化の失敗、などもあったが、毎年のように新作を出すニール・サイモンの余すところない、本書自体がかれの新作戯曲のように魅力に満ちた贈り物だ。 ぜひ戯曲集と併せて読むことをお薦めする。どちらも良いセリフが詰まってます。