わたしは邪魔された—ニコラス・レイ映画講義録

なんというか凄まじい多重構造の本。普通に学生を演技指導した講義の記録とレイの自伝かと読んでいくと、これが最後に二本の映画、ヴェンダースの『ニックスムービー/水上の稲妻』と演技講義を記録した『We Can’t Go Home Again』になると同時に、レイ自身の生涯が完結するのにタマげた。完璧な結末だ。
レイ自身述べているように、「わたしは生きながら死を体験したかったのだろう」と何かにとり憑かれたように破滅的な生活を送っていた。そこに40歳の年下の大学生スーザンが現れ彼女と結婚する。彼女が書いた彼女から見たレイの自伝が、彼の独白を補完する形で生々しくその実像に迫っている。しかし結婚によって彼の生活が変わるわけでなく、肺ガンで余命を宣告されるその破滅志向は続く。
一方で映画への情熱を学生への演技講義に注ぐ。スタニラフスキー演技の指導ってこんなのかと驚き、それをレイがどのように解釈したのかが面白くスリリングだ。彼の指摘する「アクション」とは、ただ台本に書かれた通りに演じるのではなく、すべてを準備して演じるときにはそれを忘れてはじめて行うような自然さを求める。学生に対しては適切な演出をする。「映画人はどのように人生を生き表現するか」という具体的な言葉は次々に出てくる。しかし自分の人生に対しての答えは見つからない。その自分自身への問い掛けが、自身のこれまでの人生に重なり、それがまたすべて映画に収束されて行く。
その無意識の流れというか、破滅型芸術家の晩年の凄みというか、フィクション、ノンフィクションを越えたところに、すべての執念が映画なってふたたび現れてくる。その生の姿に圧倒される。この人は本当に映画そのものなんだと思った。だからこの本から映画の裏話や批評などの何か情報を得ようとしても無理なのです。ただじっと対峙して目撃するしかないのです。
実はニコラス・レイの映画は西洋人というかキリスト教徒の苦悩なわけで、ベルイマンと同様、わたしにはピンと来ないです。おなじくピンとこない、ノーマン・メイラーやチャールズ・ブコウスキーのように面白い本だというのが正確な感想かもしれません。
『We Can’t Go Home Again』製作の頃の写真
http://www.flickr.com/photos/mg-irc/sets/72057594135692080/
『I’m a Stranger Here Myself』レイのドキュメンタリーの一部

私のハリウッド交遊録 映画スター25人の肖像


映画監督、ピーター・ボグダノヴィッチが、ニューヨークで俳優を目指していた青年時代の教師(ステラ・アドラー)、街角で出会った、いままでに唯一サインを求めた(マーロン・ブランド)、映画館に勤めていたときにこっそりとやってきた(モンゴメリー・クリフト)、エスクァィアマガジンの依頼で、ハリウッドへ飛んで出会った(ジョン・ウェイン、ジェリー・ルイス、ジャック・レモン、ケーリー・グラント)、アメリカ映画協会の依頼でジョン・フォードのドキュメンタリーを撮るためにインタビューをした(ジェイムズ・スチュアート、ヘンリー・フォンダ)、映画監督になって出演をした(ボリフ・カーロフ、ベン・ギャザラ、オードリー・ヘップバーン、リバー・フェニックス)…

贅沢な人々との贅沢な交流の記録です。以前発表された記事を再編集しているものもありますが、かなり書き込まれているので読ませます。しかしながら、全体に漂う死の香りはなんでしょうか。ボグダノヴィッチ自身の事件の陰も確かにあると思うのですが、これはクロニクルというよりは、葬儀の席で読まれる弔辞ではないでしょうか。

そういえば、彼の映画自体が、デビュー作から一貫して、スターとアメリカ映画の神話の墓碑銘を彫り続ける作業なのだと改めて気付きました。

ジョン・カサベテスとの長年にわたる関係を綴った話は感動的です。

資料・訳注がものすごく充実していて、これだけでアメリカ映画や文化についての勉強になります。本書を読みながら、DVDを観て、新たなアメリカ映画の世界に浸るのもいいかもしれません。