マーティン・スコセッシ 私のイタリア映画旅行


マーティン・スコセッシが、子ども時代、リトルイタリーのアパートで、シチリア出身の祖父母や、アイロン職人だった父や母。叔父や叔母たちと一緒にテレビで見たイタリア映画。ロッセリーニの『無防備都市』、『戦火のかなた』、ヴィットリオ・デ・シーカ、ルキノ・ビスコンティらの映画とともにはじまったネオレアリズモは、当時封切られたアメリカ映画は全部観ていたというスコセッシ少年にとっても衝撃的だったと言う。
4つのパートに分けられたスコセッシによるイタリア映画の紹介は、別に新しい視点や発見がある訳ではない。きちんと映画史の視点が入っているので、はじめてイタリア映画を観ようとする学生には格好の入門になると思う。

とは云うものの、私自身がこれらの映画を観たのは、すでに25年以上も前だった。…嗚呼。
デ・シーカは全然観ていないが、オーソン・ウェルズは『靴みがき』について、「ああいう風には撮れるものではない」と言ったらしいが、スコセッシの解説を聞くとその意味がわかって観たくなる。
ビスコンティの『夏の嵐』は、淀川長治が絶賛していたので観たと思うのだが、さっぱり憶えていない。きっと相性が悪いのです。
フェリーニは、いつ観ても新鮮な驚き。個人的にはここで取り上げていない、『フェリーニのローマ』や『カサノバ』も好き。『甘い生活』あたりは、観直したらまた違う感慨があるかもしれない。
アントニオーニも相性が良くないので、ほとんど観ていない。『太陽はひとりぼっち』のラストがどうなっているかを、今回はじめて知って、そうか「不在」「難解」な60年代の前衛ってここから来ているのかーとわかった。ヴィム・ヴェンダースが、アントニーニ好きだというのも、彼からアメリカを抜くとこうなるのだなと思った。
ロッセリーニは、改めてすごいと思った。ドキュメンタリーなのにカット割がされていて、違和感がないという奇跡的な技を持っている。『イタリア旅行』のどこが素晴らしいかについて、今までで一番納得できる解説をしてくれた。どうもヌーヴェル・ヴァーグのフィルターがかかった批評しか読んでいないのでわからなかったが、ロッセリーニは、彼については現在の視点からいくら語っても理解は出来ない「現在よりもさらに現代的な映画作家」だということがよくわかった。実に大人の映画なのでしょう。もう一度観直したい。
ロッセリーニだけでなく、他の監督たちもだが、彼らの血肉にはイタリアという文化の歴史がその根底にあるのだ。一つの撮影シーンを選択するにしても、その歴史が透けて見えてしまうのだ。だから同時期にあれほど多様な作風の監督が出てこれたのだろう。実は、そのあたりは日本も同じなのだけどね。ハリウッドスタンダードばかりで考えると、そこがわからなくなることに、最近気付いた。
ロッセリーニはスコセッシにとって義理の父であった訳で、そのあたりの因縁を考えると、戦後のイタリア映画史がスコセッシのもうひとつの家族の肖像になってくるのもおもしろい。
『神の道化師、フランチェスコ』の断片を観て、やはりハンセン氏病の男とフランチェスコの出会うシーンに泣いてしまう。映画史上もっとも美しいシーンのひとつだと思う。

■取り上げられている映画の紹介
http://www.nowondvd.net/products/myvoyage/index.html

■予告編

ワンダフルライフ

 99 是枝裕和(シネマライズ渋谷)

 『幻の光』に次ぐ第二作目。前作は、第一作ということでちょっとなあ、と言うところもあったけど褒めていた、しかしなんで宮本輝原作を映画化するのかなあとは思っていた。その疑問は解けることはなかったけど、今この作品を観て、ボク的には、「やばいんじゃないの」と思った。観終わって前を歩いていた女の子のふたり連れが、「良かったね」 「うん、日本映画ってこういうこじんまりとしたのがいいよね」と会話していた。オジサン的には大いに違うぞ、そういう事じゃないんだと言いたかったのだが、「良かったね」、と言わせてしまう監督の技量と技法が巧妙になってきたことを指摘したい。それを意識的と無意識でやっていることも。

 その前にストーリーの概略を述べると、死んだ人間が来る場所があって(古い昭和初期の病院のような建物)、彼らは一生に一度の大切な思い出を思い起こし、それを短編の映画にしてそれを観ると天国へ行けるという、その一週間を描く物語だ。

 監督の是枝は、テレビ・ドキュメンタリー界では、若手として評価が高く、自殺した環境庁の官僚を追ったものや、エイズを告知した平田氏のドキュメンタリー、田舎の分校と福祉に迫るもの、記憶が失われる人の生活を捉えるものなどを撮っている。

 今回の作品では、監督、脚本、編集を兼ねている。そのためか、長い。まあ、それはいいとして、現在のテレビ・ドキュメンタリーの手法が多く取り入れられている。 同ポジションでの編集。お陰で目をつぶっていても話の流れが分かる。それくらい喋りすぎで、映像が無い。言葉つなぎで編集され尽くされている。たぶん逆の静寂な印象を受ける人が多いと思うが、そう思わせるのが監督の意図した話法だと思う。映像的にはますます候孝賢の影響が顕著になっている。それが物事を凝視する視線と間違えられているのは、監督が大いに確信犯であると思う。自分の作り出す映像がどのように評価されることを充分意識して撮っているのが分かるからだ。ようするに、どうしたら真面目な人たちに受け入れられるか。それだけを達成するために映画が作られているとしか思えない。優等生なのだ。そういう映画もあっても良いのかも知れないけど、何を信じて映画を作っているのかまるでボクには分からない。もしかしたら本気で自分の見る世界、現実を信じて、計算しないで作っているのかも知れないが。

 人生の思い出を再現し、撮影することで天国に行けるなんてアイディアこそがテレビ製作者の驕りだと思うが、驕りがキツイ言葉なら傲慢さだ。 他人の人生を切り取り、不特定多数の人間に物語として見せるものに演出や欺瞞はたくさんある。ドキュメンタリーでもね(現場にいた者が言うのだから間違いない)。それを淡々と撮ることを正当化していく行為が観ていて耐えられなかった。そこには、何の疑いも問いかけも無かったからだ。

 非常に老成した落ちついた演出という人もいるだろうが、信じているものが違うので、これからも他人に褒められる映画しか撮れないだろう。魂を揺さぶられるような映画ではなく良くできた映画、「うん、日本映画ってこういうこじんまりとしたのがいいよね」と言わせる映画を撮り続けることだろう。「それがなんで悪いの?」という人はボクと人種が違うんです。きっと。そういう人は、家でテレビでも見てなさい。

 (角田)