映画撮影技術の簡潔な歴史

イギリスの映画協会(BFI)のサイトに短い映画撮影技術の歴史というページがあってまとまっていたので訳してみました。これが基礎知識になると思うのですが、わかりますか?観客の視点でこれを読むとどう感じるのかなと思いました。ご意見・ご感想をお待ちしています。
※は、私が書いた訳注です。
http://www.bfi.org.uk/sightandsound/feature/49524

映画創世記のはじめの数年間、キャメラマンは存在しなかった。初期の映画製作者たちはストーリーを考え、セットを作り、役者を演出し、カットの構 図を決めてキャメラを廻すまで、なんでも自分たちで行なった。ジョルジュ・メリエスやジョージ・アルバート・スミス<※1>のような人たちは 才能、知識、創造性、技術があったので、これらのことを簡単に成し遂げることができた。彼らが撮影したシーンの照明は、メリエスや彼の追随者が作った、ガ ラスで覆われた屋内スタジオの中で柔らげられた太陽光か、または屋外の直射日光だった。

※1ジョージ・アルバート・スミス:イギリスの初期の映画製作者。1906年にキネマカラーと言うカラー現像方法を考案している。

映画が、ワンカット以上で作られるようになると、1903年から専門のキャメラマンが付くようになった。1906年の全世界的な映画の流行は、 ニッケルオデオンへの更なる映画の供給を要求した。そして昼間の太陽光のある時間に撮影するために、ガラスで覆われた大きな屋内スタジオでの安定した照明 が必要とされた。このことは特別に改造された街灯のアーク灯を柔らげられた人工光として太陽光に加えることを意味した。一つのアークライトを使い、暗い シーンで、ある範囲に一面から光を当てることで不吉な雰囲気を出すことができた。1912年頃の表現主義映画では下から照明されていた。

その一方で、屋外シーンでは「バック・ライティング」と呼ばれる新しい方法が1910年に現れた。これは、カメラの後ろから役者に顔を照らすとい うのではなく、太陽光をキャメラの方に向けて、役者の背中に光を当てることだった。明るいカルフォルニアの太陽のもとでは、バックライティングは、役者が 影の中に埋もれることを避けるために、キャメラの下に置いた白い反射布から役者の顔に反射させた光と、調和させなければならなかった。

この方法は1914年に屋内撮影でも使われるようになった。背後からの光は、劇場仕様のアーク灯のスポット・ライトによって、光のビームとして狭い範囲に集中して役者に当てられる。役者の顔に正面から当てる光は、太陽光から(広い範囲を照らす)フラッド・ライトになった。

この頃まで、役者とセットは一緒にまとめて照明されていた。しかし、第一次世界大戦中、新しい映画照明についての基本コンセプトがアメリカ映画で 確立された。まずセットの照明を行い、それから別のライトで役者の照明を行うという方法だ。ヨーロッパのキャメラマンが昔ながらのやり方を続けていたが、 アメリカの撮影技術は20世紀を通じて先導し続けることになる。トップレベルのスチル写真撮影者たちが新しいキャメラマンとして、戦争の間に映画産業に やってきて注意深く照明の角度を決める技術を見せた。彼らのひとりにチャールズ・ロシャーがいた。彼はメアリー・ピックフォードと契約して彼女が主演、製 作する映画の撮影を行なった。
(チャールズ・ロシャー、メアリー・ピックフォード、エルンスト・ルビッチ)

同じ時期に「軟調(ソフト・フォーカス)」効果は、次第にスチル写真技術から、映画撮影技術に侵食してきた。この「美学的」な霞んだシーンの極端 な使用がD・W・グリフィスの『散り行く花』(1919年)で、ヘンドリック・サルトフの影響のもとに行われた。彼はグリフィスのキャメラマンだったビ リー・ビッツァーに取って代わるようになった。軟調は1920年代を通じてアメリカ映画の基調となり、次第にヨーロッパに広がっていった。
『散り行く花』

映画のシーンはますます役者のクローズアップのカットを重ねるようになってくると、キャメラマンは、人物の照明のやり方を規格化するようになっ た。キー(主)ライトは通常、スポットライトで顔の形をくっきりさせる。フィル(抑え)ライトは通常フラッドライトで、顔の凹凸の影を消す。そして、バッ クライトは先ほど書いたとおりである。これは三点(スリーポイント)照明と呼ばれるようになるが※<2>、実際は1920年代のアメリカ映画 では二台のバックライトが、アタマの両側から使用されていたので、四点照明だった。1925年頃のパラマウント映画、例えば『子の心親知らず』(1925 年)などで見ることができる。そして他社のキャメラマンも同じような照明をしていた。「グラマー・ライティング」※<3>の秘密は、キーライ トとフィルライトがキャメラのすぐ両脇に置かれ、ほとんど同じ強さでバックライトが別の方向から近づくことによって生み出された。そしてもちろんものすご いソフトフォーカスを使っている。

※2 スリーポイント照明:http://www.mediacollege.com/lighting/three-point/simulator.html
※3グラマー・ライティング:ジョゼフ・フォン・スタンバーグ作品の、マレーネ・ディートリヒの顔への照明がわかりやすいと思われる。

ほとんどの監督はキャメラマンに構図を決めさせた。そしてキャメラマンは、大部分のアイディアを過去の古典的絵画から持ってきていた。撮影技術に 現代美術の影響を取り入れることはほとんどなく、それは何をどのように撮影するかを自分自身で決定した、一握りの有能な監督たちの手によってなされた。そ の最初のひとりはフリッツ・ラング。彼のアイディアは幾何学的な抽象芸術から来ていた。その次はセルゲイ・エイゼンシュタイン。彼の構図は完全にアヴァン ギャルド芸術に対する彼の個人の統合からもたらされたもので、キャメラマンが作り出したものではない。

1920年代には、様々なカメラの動かし方(移動、パン、ティルト)への関心が起こった。それは『最後の人』(1924年)を作ったF・W・ムル ナウのようなヨーロッパの映画監督が主導した。これはカメラを動かすことが、大変な作業になり、献身的なキャメラ・オペレーターが必要になってきたことを 意味している。キャメラ・オペレーターは原則的にはキャメラマンの管理下で作業をする。キャメラマンは今やすべての注意を照明に向けることになる、そして 現場ではキャメラ・オペレータと区別するために「ライディング・キャメラマン」※<4>と呼ばれた。そしてキャメラ・オペレーターは助手また は、キャメラの動きに要求に応えるためピント送りをする「フォーカス担当」を従える。

※4ライディング・キャメラマン:イギリスでは撮影監督はそのように呼ばれる。

1930年代、すべての長編映画の撮影技術は、洗練され定型化されて目に見える逸脱は殆どなかった。ヨーロッパ人たちは、アメリカ人よりは少ない 照明を使って、彼らの技術革新を取り入れていた。にもかかわらず、いくつかの実験が進められていた。それは主に深い被写界深度を得るため試みられていて、 オーソン・ウェルズの『市民ケーン』(1941年)の撮影でグレッグ・トーランドが開発した。トーランドは、広角レンズと強力な照明で深い焦点距離 (ディープ・フォーカス)を作り上げた。しかし彼の撮影技術で最も画的に目立った特徴は、光の強いコントラストだった。彼は役者の顔に抑えの照明で黒々と した深い影を残して目立たせた。それは慣習的な1930年代の映画撮影のスタイルにまったく反することだった。『市民ケーン』の照明は、通常のものからは 逸脱していたので、ローアングルで広角レンズを使ったウィリアム・ワイラーの『我等が人生最良の年』(1942年)や抑えられていない黒々とした影は『君 去りし後』(1944年)のリー・ガームスによって模倣された他には、すぐに影響をおよぼすことはなかった。トーランドの技術の薄められたバージョンはい くつかの1950年代の映画、例えば『拳銃王』(1950年)に見ることができる。

1950年代には、モノクロは次第にカラーに変わるようになった。しかし、これらは映画技術に限定的な効果をもたらすものではなかった。1930 年代に後半にテクニカラーが現れてから、カラーを撮影するキャメラマンの標準的な対応は、背後からの照明はそのままに保て、しかし輝度は落とせだった。こ れは白黒テレビに比べて、フィルムは未だに美しく映ることを意味した。

1960年代に照明に関する真に根本的な変革があった。最初、ヨーロッパの照明はアメリカのキャメラマンあるいは撮影監督(彼らはこう呼ばれるこ とを好んでいる)の影響を受けていた。新しい形は、ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』を撮影した、写真ジャーナリストだったラウール・ク タールからもたらされた。ゴダールはロケ現場の「自然光」だけで撮影することを要求した。クタールはこれを高感度フィルムで行い、特別な現像でさらに増感 した。

この後、クタールは屋内の「自然光」を補光するのに、小さな写真用ライトを天井に向けて反射させて照明をして自分の仕事を簡単にした。この間接的 な「ソフトな」照明は、これまでの、人物に向けてまっすぐに光を当てていた直接照明に大きな変化をもたらした。※<5> ソフトな照明は、大 きなランプが入った白い外面で覆われた反射光で作られ、窓を通して部屋に入ってくる空からの光と同様で影を作ることがほどんどない
そのような照明は、また半透明の材質の大きなシートを通した強い光によって作られる。それはディビッド・ワトキンがピーター・ブルックの『マル キ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者によって演じられたジャン・ポール・マラーの迫害と暗殺』(1966年)で行なった方法だった。アメ リカでの「ソフトな照明」のはじまりは、ヒッチコックの『引き裂かれたカーテン』であった、そしてハスケル・ウェクスラーはノーマン・ジュイソンの『華麗 なる賭け』(1968年)で行なった。

※5「ソフト」な照明:フレームの外の壁に並べられたランプに注目。

『気狂いピエロ』

手持ちカメラもまた、撮影をスピードアップするか、『イージー・ライダー』(1969年)のニューオリンズのシーンのように刺激を増す方法として 1960年代に重要なものになった。1970年代に、スムーズな移動撮影を可能にした、キャメラを保持する方法の大きな変革がスティディカムの発明だった 『ウディ・ガスリー わが心のふるさと』(1976年)で発明者のギャレット・ブラウンによって操作され、新しい撮影の可能性として監督たちを喜ばせた。 スティディカムはまた、移動レールを敷かないために予算の節約をもたらし、製作部を喜ばせた。
『シャイニング』スティディ・カム操作中のギャレット・ブラウン

1980年代は、多くの映画製作者たちは、イーストマン・コダック社が常に努力して、現実の世界の色に、自然な「正しい」色に近づくように作られ たカラーフィルムを拒否した。代わりに彼らはレンズにフィルターを使い、色を付けた照明をするか、現像所で現像過程に変化を加えた。※<6>  照明について、プロの間で議論になった大きな話題は、特別な「ルック」を探し、キャメラマンはいかにしてそれを作り上げるのか、彼らは独自の技術を用い て熱心に自分のスタイルをフィルムに残していった。

※6 ヨーロッパの撮影監督がたくさんハリウッドに来ている時期で、『地獄の黙示録』などのヴィットリオ・ストラーロ、『ディア・ハンター』『天 国の門』のヴィルモズ・ジグムンドがフラッシングというネガに光を当ててコントラストを弱くする効果を生み出した。これは当時のコダックのフィルムの発色 が派手で鮮やか過ぎたためと考えられる。
ロメールやトリュフォーの映画のネストール・アルメンドロスは、自然光を巧みに使い、『天国の日々』は日没後のマジックアワーに撮られた。彼は自著の「カメラを持った男」で、どのようにしてルックを選ぶのかについて例を上げて説明している。

『天国の日々』

1980年代を通じて、そぐわないようなシーンであっても、濃いスモークを使うことがより一般的になってきた。この10年間でもっとも影響を与え た照明はスモークを絶え間なく使用した、リドリー・スコットの『ブレード・ランナー』(1982年)での、ジョーダン・クローネンウェスの仕事だった ※<7>。シーン内では常に背後から強いビーム光線で照らされるか、光源がフレームの中にあるため、役者の後ろにある霞んだ光の壁が、役者の 顔よりも明るくなる効果を生み出している。リドリーはこのアイディアは『市民ケーン』から来ていると言った。私は特に映写室のシーンからだと推測してい る。昔からキャメラマンは、常に役者の顔が暗い(露光不足)になることを避けるために、背景は役者より少し暗めに照明していた。

※7:リドリー・スコットのスモークは、彼の出身だったCM撮影に由来している。『エイリアン』では、宇宙船内でのスモークは、火事では無いかと思われると云われ使用を少なくした。

今日、主なキャメラマンの照明スタイルはソフトとハード(直接)の使用の中間にある。シドニー・ルメットの『Critical Care』(1997年)では、ディビッド・ワトキンにソフトな照明の極端な形を見ることができる。一方では、強い光をまったく柔らげることなく撮られた 『キャンディマン』(1992年)でのアンソニー・B・リッチモンドの仕事がある。

Painting with Light 読み始めました

撮影監督、ジョン・アルトンの本です。ようやく手に入れました。…ってほどの稀覯本ではないですが。

ジョン・アルトンのことを最初に知ったのは、1995年のマーティン・スコセッシが案内するテレビ番組「A Personal Journey with Martin Scorsese Through American Movies 」の後編、「Director as a Smuggler 」というB級映画の監督たちを特集する内容の中だった。アンソニー・マンのフィルム・ノワール三部作の異様な美しさを持ったシーンの数々、アラン・ドワンのニューロティックな西部劇のカラー撮影。これらの撮影監督がジョン・アルトンだった。

本書のマーティンスコセッシの紹介文を引用する。

とても洞察的で、情報あふれる、この忘れられた本の再発刊は、映画を学ぶもの、研究するものに限らず、映画撮影芸術に興味がある者たちすべてにとって素晴らしい出来事であり、その著者のジョン・アルトンは、今も尚その芸術の偉大なる実践者のひとりだ。明るく、カラフルなスタジオで作られたファンタジー『パリのアメリカ人』から、豊かで不吉な屋内撮影の『悪の対決』まで、繊細なモノクロのロケーション撮影の『The People Against O’Hara』から、彼のアンソニー・マン(『Raw Deal』『T-Men』『Border Incident』)やジョゼフ・H・ルイス(『暴力団』)と組んだ、力強いフィルムノワールまで、アルトンは、数少ない者だけが持つ、消えることの無い刻印を彼の仕事に残した。
彼は、真に光で描いたのだっだ。

とりあえず、映画評論家、Todd McCarthyによるアルトンの生涯を紹介したIntroductionを読む。

アルトンは、1901年生まれのユダヤ人で、ブダペスト出身。第一次世界大戦前の硬直化したオーストリア=ハンガリー帝国の中では、将来が無いと思い、ニューヨークに渡る。ここで偶然、映画の撮影に携わり、映画の魅力に取り憑かれる。

ハリウッドに行き、なんとかMGMの現像所に潜り込むことに成功する。しかし、鼻っ柱の強いアルトンは、上司とことごとく衝突し、ヨーロッパに飛ばされる。ここでは1930年代のハリウッドで流行していた、外国語バージョンの撮影を行っていた。彼の撮影監督人生がここから始まる。ヨーロッパだけでなく、パレスチナやアジアの辺境まで出掛ける。

あるとき、アルトンは、アルゼンチンの億万長者と出会い、ブエノスアイレスにサウンド撮影所を作ってほしいといわれ、計画に参加する。
そのまま、監督、撮影をして、アルゼンチンの映画産業を作った。
その最中に、オーストラリア出身のユダヤ人の家系の女性と出会い、2週間後には結婚する。彼女は当時では珍しい女性飛行家だった。

ハリウッドに戻ると、古巣のMGMで、ルイスBメイヤーは彼の復帰を願ったが、撮影部門の責任者が、かつてアルトンを嫌った男だったので、それは叶わなかった。
代わりに、彼はRKOに行った。その中の、独立プロデューサーの元でもっぱらB級映画の撮影を行った。

第二次世界大戦中は、軍務に付くがどんな任務についていたか、詳しくは不明。ヨーロッパ方面の司令官、ブラッドレー将軍と面識があったようだ…。

アルトンは仕事が早いので、プロデューサーからは重宝される。彼の闇を使ったライティング、自然光のみの撮影、ワイドレンズの使用などで、撮影の常識を覆していった。彼がB級映画の低予算の現場を選んだのは、彼の独特な撮影手法とスピードに、大手撮影所のスタッフは追いつくことができない知っていたからだろう。そして使うライトの数が少ないから多くのスタッフがいらないこととなるので、スタッフにとっては死活問題となる。これは後年、大作『パリのアメリカ人』の撮影の時現場で、現場スタッフと衝突を生んだことで証明される。

そして、アンソニー・マンと組んだフィルム・ノワール3部作で、彼のスタイルは頂点を迎える。その一方で撮影所を渡り歩き、低予算映画の数をこなし稼ぎまくる。高給取りでもあったが、B級映画は撮影日数が少ないから、何本もこなせるというのが、その秘訣だったのだ。

1950年代、アルトンはMGM に戻る。撮影所の古株からは嫌われるが、ヴィンセント・ミネリ、リチャード・ブルックスらの監督の強力なバックアップで彼のスタイルは保たれた。

アルトンはミネリのことが大好きだった。
「どこか私たちは、物事を同じように見ていた。彼はデザイナーだった、そして彼にはニューヨークの舞台での経験があり、それは私の映画での経験と補足し合った」

一方で、アラン・ドワンとの関係では、「彼は映画産業黎明期からの偉大な監督だ。しかし彼は変わらなかったし、なにか新しいことが起きようと知ったことではなかったのだろう。それが彼が消えていった理由だ。でも彼は良い監督だ」という評価。

1960年、59歳で彼は引退した。それから妻と世界中を旅行して歩いた。映画関係者とはほとんど接触をとらなかった。映画マニアの間で、彼の存在は次第に生きている伝説となった。

晩年、彼は再び姿を現し、各地の映画祭を回った。「不思議なもんだ。映画祭に行って、彼らが見せるのは、何ヶ月もかけて撮影した大作じゃなくて、12日で撮影した低予算の暗黒映画なんだよ」

92年の生涯を振り返って彼はこう言う。
「もし、もう一度人生をやり直すとしたら、まったく同じようにやりたいね。私のような成功をした人はそれほどいないだろう。あなたが、自分の仕事を楽しんでいるとき、あなたは生きている。私がそうだったときには幸福だった。毎朝、私は子どものような気持ちで、撮影所に行ったものだ。それが私の人生を魅力的な人生にした」

Life is short,but long enough to get what’s coming to you
THE AUTHOR

本書が1949年の出版当時画期的だったのは、現役のハリウッドの撮影監督が一般に向けて、映画撮影の作業を公にしたことだ。ハリウッドと云う、縁故とコネで成り立っている閉鎖的な世界に一石を投じたのだ。現在の技術から見て、古びている部分もあると思うが、基本は変わらないので、参考になると思う。逆に、3DCGの撮影などでは、応用できる部分がたくさんあるのではないかと思います。

『パリのアメリカ人』では、カラー映画で、白黒映画の照明をする(バレー・シーンのみ参加)。しかしジーン・ケリーの次作『雨に歌えば』では撮影途中で下ろされることになる。

ドン・シーゲルと組んだ『暗黒の鉄格子』の予告編。本の中では言及なし(涙)
01:12の男は若い頃の、やぶにらみジャック・イーラムのはず!